アラブの春とはそもそも何?
アラブの春は2011年に起こった中東と北アフリカの各国で一気に巻き起こった一連の民主化運動のことを指します。
アラブの春はチュニジアで起こったジャスミン革命が全国で拡大するという中で中東に広がり、長期的な独裁政権に国民は不満を抱いていました。
こうしたアラブの春によって中東の独裁政権が倒されていきましたが、その後の中東では混乱が続いており、シリアでは今でも内戦が行われています。
ジャスミン革命
アラブの春は2010年にチュニジアで起こったジャスミン革命が発端と言われています。
革命が起こったチュニジアでは長年にわたって独裁体制が築かれており、民衆は抑圧された生活を送ることを強いられていました。しかし、そんな中で抵抗を示すため一人の青年が焼身自殺を行いました。
チュニジアを含めたイスラム圏では自殺は禁じられており、青年の抵抗による自殺が人々へ大きな波紋と影響を及ぼしたのです。さらにこの流れがこの当時から普及し始めていたFacebookなどがこの民主化運動を後押ししていき、これによりチュニジア全土で大規模デモから暴動が起きていくようになります。1ヶ月も経たない間に当時大統領だったベン=アリーは国外追放。チュニジアの独裁政権に引導を渡したのでした。
その後チュニジアでは新しい憲法を制定するために制憲国民議会選挙が実施。イスラム主義政党アンナハダが第一党となり、12月には大統領と首相が選出されて民主化へ移行する新政権が始まったのです。そしてこのチュニジアで巻き起こった一連の革命が中東へと広がったことがアラブの春へと発展することとなっています。
みんなが情報発信する時代
アラブの春の特徴として民衆たちがFacebookなどのSNSなどを使って情報を拡散したということがあります。
これまでメディアといえば新聞などといったものが中心でしたが、新聞社が決めた内容ではなく、個人が広めるものを選ぶこのSNSはチュニジアの民主化運動をそのまま写していました。
そしてこのSNSの登場は個人主義をさらに加速させていき、民主化運動の旗揚げとして使われていくようになったのでした。
広範囲へ拡大する運動
ジャスミン革命は、瞬く間にアラブ諸国へ伝わっていき、中東の国々の独裁政権を次々となぎ倒していきました。
次はそんな中東の民主化運動について見ていきたいと思います。
エジプト
チュニジアの民主化デモは国境を越えて各国へ拡大していくことになりますが、最初に大きな変化をもたらしたのはエジプトでした。
エジプトではムバラク大統領による独裁体制が築かれていましたが、チュニジアのジャスミン革命に影響を受けて国内で独裁政権に対するデモ活動が激化。エジプト全国にて参加する国民が増えていき、民主化運動は大きなビックウェーブとなりました。そしてこの動きを見たムバラク大統領は国軍最高会議に権限を委譲。ムバラク大統領は軟禁されてしまい30年の独裁に終止符を打つこととなったのです。
これにより暫定的な軍政が始まりましたがこうした流れの中11月に選挙が開催。2012年5月には新しい大統領も選出されてエジプトは民主主義国家に生まれ変わりました。
イエメン
イエメンではもともとサーレハ大統領を打倒するデモ運動が各地で頻発していました。
これに対して政府はデモ活動を鎮圧させていきましたが、治安部隊との衝突が起こり一時混乱が拡大することにつながります。これに対して国連安保理が退陣を認める提案の署名を促すという決議を成立させてこれによってイエメンの独裁体制が崩壊。2012年2月に大統領選挙が行われハーディー大統領が就任しました。
リビア
リビアではカダフィ大佐による独裁体制が築かれていました。しかし、リビアではエジプトより1ヶ月遅れて反体制派がカダフィ政権を倒すために民主化運動を開始。この民主化運動は武力衝突まで拡大していくことになり、国際社会からはカダフィ政権への非難が強まっていくことになります。そして国連安保理決議によって英米仏を中心とした多国籍軍が軍事行動を開始。国際社会の支持を受けた反体制派は首都であるトリポリを制圧。そしてカダフィ大佐が出身地であるシルテで死亡したことをうけてカダフィ政権が完全に崩壊し、反体制派がリビア全土の解放を宣言。42年続いたカダフィ政権が崩壊しました。