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多くの人々を苦しめた公害病「新潟水俣病」とは?~高度成長期の光と影~

敗戦後の日本が経済的に飛躍的な発展を遂げ、世界の先進国の仲間入りを果たした要因とされる高度成長期。人々の生活は豊かになり、新しい文化が次々に興隆していきました。そんな日本の希望の光ともいえる高度成長期にあって、陰の部分とされた様々な弊害も忘れてはなりません。それが公害病という負の遺産です。今回は四大公害病の一つとされる新潟水俣病を取り上げ、人の命や尊厳は何なのかを考えていきたいと思います。

なぜ新潟水俣病が発生したのか?

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新潟水俣病は別名「第二水俣病」とも呼ばれています。なぜなら新潟水俣病が発覚する数年前に問題となった、熊本県の水俣病とそっくりの公害事件だったからです。まず事件のあらましを解説してきましょう。

メチル水銀を阿賀野川へ放出する化学工場

新潟市や阿賀野市を流れる阿賀野川は、栃木県・福島県を源流として、その流域は古くから交易路として栄えていました。その川の流れは農業の灌漑用水として、また豊富な水産資源として広く活用されていて、新潟の人々の食卓にもサケやマスなどの川魚が並んでいたといいます。

そんな清廉な流域に化学工場が建設されたのは昭和4年のことでした。当初は肥料用の原料を製造する目的でしたが、終戦後に工業用の酢酸の需要が高まると、この工場でも酢酸エチルや酢酸誘導品の製造にシフトしていきました。この工場を昭和電工鹿瀬工場といいます。福島県境に近い阿賀町にありました。

酢酸を製造する場合、まずアセトアルデヒドが生成されますが、一般的には二日酔いの要因や発がん性物質としても知られていますね。ただしアセトアルデヒドを得るために硫酸第二水銀が触媒として使われるのですが、副産物としてメチル水銀という有毒物質が生成されるのです。

このメチル水銀は一部では農薬として使用されますが、ほとんど使用用途がありません。そのため排水とともに阿賀野川へ流されることになったのです。

生物濃縮を繰り返すメチル水銀

メチル水銀は確かに毒性が高く危険な物質でしたが、阿賀野川は一級河川ですし、下流部の河川水量でいえば日本一を誇る大河川です。大量に流れる川の水で希釈されることは明らかでした。おそらく川の水をそのまま飲んだとしても、体に与える影響はほとんどないも同然だったでしょう。

しかしメチル水銀の恐るべき特徴は強い毒性だけではなかったのです。非常に生物濃縮されやすい物質として知られ、熊本の水俣病事件の際には猛威を振るったのでした。

ところで「生物濃縮」とはどのようなことを指すのでしょう。メチル水銀はいわゆる脂溶性とされていて、「水に溶けにくく、油に溶けやすい」特性があるのです。メチル水銀は川の水では溶けません。それをプランクトンが吸収し、さらに魚が捕食します。ところがメチル素銀は魚の体内にある脂で溶け出して、体外へ排出されることがありません。

そうすると魚の体内の水銀は徐々に濃縮されていき、汚染された魚を人間が食べると中毒症状を起こしてしまいます。阿賀野川特産のニゴイは酒の肴として愛好されていたため、特に男性に集中して中毒が起こったとされていますね。

次々に被害者を出していった新潟水俣病

昭和電工鹿瀬工場の操業自体は、関連会社が引き継ぎながら現在も続いています。実際にメチル水銀を排出していたのは昭和40年までのことでした。ところがこの公害病は、阿賀野川流域の人々にとって深刻な被害をもたらすことになったのです。

新潟水俣病の中毒症状については、熊本の水俣病とほぼおなじで、以下のような症状が顕著になりました。

 

・感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、味覚・嗅覚・聴力障害など感覚的なもの

・平衡機能障害、歩行障害、筋力低下など身体的なもの

 

2015年12月までの認定患者・医療対象者数は1059人で、熊本水俣病には及びませんが、夥しい犠牲者を出すことになったのです。

新潟水俣病の公式発表がされてからすぐに、新潟県や新潟大学などが現地調査を実施し、水銀中毒者や水銀保有者に対して医療手当や遺族弔問金、事業資金の貸付けなどを行いました。

こうして新潟水俣病は、熊本水俣病に次ぐ社会問題として脚光を浴びることになりました。

広がる差別と偏見の目

新潟水俣病は人々の平穏な生活を破壊しただけではありません。地域の人間関係・社会関係すら断ち切ってしまうのです。

熊本水俣病の発生から9年後だったにもかかわらず、原因不明の伝染病だと風評が立ち、祟りや呪いとまで噂されました。またメチル水銀による中毒症状だという事実が判明しても、患者たちは仕事を辞めさせられたり、結婚差別といった精神的負担を強いられました。

実際に医療に携わる医療従事者たちにさえ偏見の目が向けられ、あからさまに嫌がらせをされたり、心無い恫喝を受けたりしたそうです。このあたりは現在の新型コロナに関わる医療従事者差別のケースと根は同じところにあるような気がします。

また新潟水俣病発生地域だけでなく、その地域に住んでいる人が水産物を取り扱っているという理由だけで売れなくなったり、周辺海域の海産物でさえ敬遠されるようになりました。いくら獲っても売れないため、漁獲高は激減したといいます。やはりこういったいきさつも、福島第一原発の風評被害と酷似していますね。

被害者らの損害賠償訴訟をめぐる戦い

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新潟水俣病の発生要因が水銀によるものと認められても、被害者に対する補償は遅々として進みませんでした。そこには経済成長や利益を優先して、人の命や環境の保全などは二の次だという経済偏重の考えが蔓延っていたためです。そして損害賠償のための戦いが始まるのでした。

いっこうに進まない政府の対策

新潟水俣病に先立つ熊本水俣病の発覚以来、長きにわたって国や政府の対策は進まないままになっていました。学術・研究機関では、発生原因がメチル水銀にあることが確実だとされていたにも関わらずです。

国の経済成長や企業の利益を優先させるあまり、人命や環境問題が軽んじられていたに他なりません。あろうことか被害者への損害賠償金ではなく、見舞い給付金という【はした金】でカタを付けようとしたほどでした。

新潟水俣病が発覚した時も、国や政府の対応が変わることはありませんでした。

昭和41年3月、特別研究班・関係各省庁合同会議において、厚生省の疫学班はこう報告しました。

「阿賀野川沿岸の有機水銀中毒症集団発生に関して、昭和電工鹿瀬工場が排水中のメチル水銀化合物が原因であることは間違いない。」

しかし、この会議の中で経済成長優先・大企業優遇の姿勢を取る通産省が反論し、「工場排水が原因と断定するには不十分」と断定します。そのため原因究明の結論は先送りにされ、会議そのものの内容も秘密にされてしまったのです。

同年6月、それを受けて昭和電工側は突拍子もないことを言い出しました。

「当社の工場排水は30年間排出し続けてきたので、突発的や一時的に病気が突如発生したことを説明できない。昭和39年の新潟地震による津波で、河口付近の農薬倉庫から流出した水銀が阿賀野川河口まで達し、川を逆流して下流域を汚染したのではないか。」

横浜国立大学の北川教授もまた昭和電工の言い分に乗って農薬流出説を唱えます。まさに大企業の責任逃れともいえる対応に、被害者たちは涙を流して憤りました。

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明石則実