三国時代・三国志中国の歴史

三国志でも大人気!眉目秀麗にして知勇兼備の「周瑜」とは?その生涯を分かりやすく解説

三国志に登場する武将の中で、いちばんイケメンなのは誰?と聞かれたら、迷わず「周瑜(しゅうゆ)」と答えるでしょう。呉の孫権(そんけん)の右腕をつとめるほどデキる男で、なおかつ眉目秀麗。人気がないわけがありません。そんな周瑜は、いったいどんな生涯を送ったのでしょうか。わかりやすく解説していきたいと思います!

聡明かつ眉目秀麗な周家の御曹子・周瑜

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名門の家に生まれた周瑜は、聡明で眉目秀麗な青年に成長し、周囲の羨望の眼差しを受けるようになります。そんな彼は孫策(そんさく)と出会い、たちまち親友となりますが、その孫策の要請によって軍に加わってから、彼の運命が動き始めました。孫策との出会いまでをご紹介しましょう。

周家の御曹子として生まれる

周瑜は、175年、盧江郡(ろこうぐん/(安徽省)に生まれました。字(あざな)は「公瑾(こうきん)」と言います。

彼が生まれた周家は、一族から大臣クラスの高官が多く輩出されており、名門と呼ぶにふさわしい家だったということです。そんな名門の御曹子だった彼は、「周郎」と呼ばれました。これは、「周家の若様」という意味ですね。

そして彼は成長し、長身の美丈夫となりました。なおかつ聡明だったため、まさに眉目秀麗な若君として、周囲からの羨望を一身に受けるようになったのです。

それだけではなく、彼は音楽にも精通していたと伝わっています。宴の最中でも、演者の間違いに気づき、そちらに視線をちらりと向けることもありました。演者にとっては相当なプレッシャーですが、音楽にも長じていて眉目秀麗な若様とは、憧れてしまいますよね。

孫策と出会い、親友となる

若き周瑜に転機が訪れたのは、孫策という青年との出会いからでした。

孫策の父・孫堅(そんけん)は、当時後漢の朝廷を牛耳っていた董卓(とうたく)に反旗を翻した部将で、なかなかの実力者でした。そんな父に負けず劣らず、実力を期待されていたのが孫策だったのです。

孫策の噂を聞きつけた周瑜は、さっそく彼に面会しようと訪れました。同い年でもあった彼らはたちまち意気投合し、周瑜は孫策に自分の屋敷を譲り、固い友情で結ばれるようになったそうです。その交わりは、「断金(だんきん)の交わり」と評され、金属を断ち切るほど強いものだったと伝えられています。

孫策からの厚遇

191年、孫策の父・孫堅が戦死すると、孫策は父から受け継いだ勢力を拡大するために動き始めます。とはいえ完全な独立勢力ではなく、当時は隆盛を誇っていた袁術(えんじゅつ)の下に入りました。しかし袁術は主君としての器量は小さく、徐々に孫策の心は離れていきます。

そんな中、孫策は袁術から揚州(ようしゅう/江蘇省)を統括する劉繇(りゅうよう)を攻めるように命じました。そこで孫策が加勢を頼んだのが、周瑜でした。周瑜の協力により勝利を収めた孫策は、丹陽郡(たんようぐん/江蘇省長江以南)一帯に勢力を拡大することとなったのです。

その後、袁術から配下に加わるように要請されていた周瑜でしたが、彼はそれを断り、やはり孫策のもとへ戻ります。孫策は狂喜し、周瑜に2,000人の兵士を与え、軍楽隊や住居など何でも与えて厚遇し、「これでもまだ足りぬほどだ!」と言ったそうですよ。

孫策・孫権兄弟の側近として存在感を発揮

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周瑜の力を得た孫策はやがて一大勢力となりましたが、敵に襲撃されて命を落としてしまいます。その後継者となった孫権に、周瑜は孫策同様に忠誠を尽くしました。誰にでも物腰柔らかで謙虚な彼は、孫権陣営でも欠かせない存在となり、頼りにされるようになっていくのです。

孫策と義兄弟となる

周瑜の協力のもと、孫策は順調に勢力を拡大し、やがて江東(こうとう/長江東の一帯)を支配するようになります。そして199年、彼は荊州(けいしゅう/湖北省)攻略に乗り出すことを決断しました。

荊州は現在の中国の中央から南部一帯を占めた、戦略的にもきわめて重要な要衝でした。ここを手に入れることは、天下さえも狙えることを意味していたのです。それほどまでにこの時の孫策は実力を持ち始めていたのでした。

荊州攻略戦の中で、彼らは美しい姉妹と出会います。彼女たちは敵の娘でしたが、すでに父親は孫策と周瑜によって攻略されていました。そして、孫策は姉・大橋(だいきょう)を妻とし、周瑜は妹・小橋(しょうきょう)を娶ったのです。ちなみに、三国志演義では大喬小喬という表記となっていますね。

すでに兄弟以上の親交を結んでいた孫策と周瑜でしたが、これで本当に義兄弟となったわけです。孫策は「彼女たちは故郷を失ったが、我々を婿としたのだから満足なはずだ」と言ったとか。

新たな主君・孫権に礼を尽くす

ところがこの翌年、孫策は外出した際に敵に襲撃され、重傷を負い、その傷が元で亡くなってしまいました。臨終の床で、彼は、周瑜をはじめ家臣たちに弟の孫権(そんけん)を補佐してくれるように遺言します。

その遺言を、周瑜は誰よりも忠実に守りました。孫権はまだ26歳と若く、家臣たちよりもずっと年下だったため、軽んじられることもありました。しかしそんな時、周瑜は自ら孫権に臣下の礼を取ってみせたのです。その姿は皆の胸を打ち、彼は孫権陣営でも一身に尊敬を集めることとなりました。

孫権陣営の重鎮・程普(ていふ)は、若い周瑜がどんどん力をつけ頭角を現してくるのを快く思っていませんでした。しかし、周瑜はそれでも程普を敬い、いつでも謙虚に接したそうです。すると、程普の心もほぐれ、ついには「周瑜と交わっていると、薫り高い美酒を飲んだようで、自分が酔っていることにも気づかないくらいだ」とまで言い出すほどになったのでした。美形で仕事もできるなんてちょっと嫌味なほどですが、内面までパーフェクトとなると、もう何も言えませんね。

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