三国時代・三国志中国の歴史

三国志でも大人気!眉目秀麗にして知勇兼備の「周瑜」とは?その生涯を分かりやすく解説

孫権の強力な助言者となる

当時、最も勢いがあり力を持っていたのは曹操(そうそう)でした。ちなみに、曹操・孫権と並ぶ三国志の重要人物・劉備(りゅうび)はまだ芽が出ず、軍師・諸葛亮(しょかつりょう/諸葛孔明)にも出会っていない頃でした。

ライバル・袁紹(えんしょう)官渡(かんと)の戦いで破った曹操は、孫権に人質を要求してきます。これを断れば、強大な曹操に攻められることはわかり切っていましたから、孫権はうろたえますが、どうにも答えが出ません。そこで彼が頼ったのは、やはり周瑜でした。

孫権は母親である呉氏(ごし)のところへ周瑜だけを連れていき、その前で議論しようとしました。周瑜はきっぱりと、「人質など送る必要はございません!今は力をたくわえ、天下の情勢を見定めるべきと存じます」と言い切ります。すると呉氏もうなずき、周瑜と母親が同意見であることを知った孫権は、曹操の要求をはねつけることを決めたのでした。

母・呉氏は孫権に対し、「周瑜を兄と思いなさい」と言ったそうです。いまいち優柔不断なところもある孫権は、その後も周瑜を頼り、誰よりも信頼しました。

孫権陣営の中心となり、赤壁の戦いへ

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孫権の右腕となった周瑜は、時には判断に迷う主の背中を押す役割もつとめます。曹操との決戦に臨むかどうか迷う孫権に、自信を与える助言をすることもありました。そして赤壁(せきへき)の戦いにおける大勝利の立役者となるのです。周瑜がもっとも輝いていた時期を解説していきましょう。

優柔不断な主のために舞い戻る

周瑜が推薦した魯粛(ろしゅく)は、孫権に対して今後のどうすべきかを助言します。それは、孫策が果たせなかった荊州をものにすること。北方は衰えたとはいえまだ存在する後漢王朝と曹操が争っているため、孫権はこの機会を逃してはならないというものでした。そして荊州を奪取したあかつきには帝王を名乗るべしと付け加えたのです。

荊州はすでに述べたとおり、みなが狙う要衝でした。

この頃、劉備は荊州の劉表(りゅうひょう)を頼って来ており、この地で諸葛亮を家臣に迎えています。しかし劉表が亡くなったことで、曹操は跡継ぎの劉琮(りゅうそう)に圧力をかけて降伏させ、ついには孫権に迫って来たのです。

強大な曹操の力の前に、再び孫権は迷いました。重臣たちも多くが降伏を支持していたためです。しかし、魯粛はただひとり抗戦を唱え、それを聞いた周瑜は、派遣されていた前線から、ただちに孫権のそばに舞い戻ったのでした。

孫権を説得し、赤壁の戦いに臨む

周瑜は降伏に傾いた孫権にこう説きました。

「曹操は水軍の戦いにもこちらの風土にも慣れておりません。きっと兵たちの間には疫病が流行するはず。しかも、曹操の水軍は荊州の軍勢やかつての敵・袁紹の配下たちですから、忠誠心もそれほどではありません。ならばこちらにも勝つ機会はございます。曹操は自ら死にに来たようなものですぞ!」

周瑜の言葉はそれだけで他の家臣の意見に勝ります。孫権は降伏から一気に抗戦に転換し、ちょうど魯粛と共に来ていた諸葛亮を介して劉備と同盟を結び、共に曹操と戦うことにしたのでした。

そして208年、孫権・劉備連合軍と曹操軍が激突する「赤壁の戦い」が勃発したのです。

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