三国時代・三国志中国の歴史

三国志でも大人気!眉目秀麗にして知勇兼備の「周瑜」とは?その生涯を分かりやすく解説

計略で曹操軍を打ち破る

周瑜の予想は当たり、曹操軍には疫病が流行しました。周瑜は弱った曹操軍をここで叩くことにし、部将・黄蓋(こうがい)とある策を実行に移します。

黄蓋は周瑜に火攻めを進言していたのですが、まず黄蓋に内通を見せかけさせ、偽りの投降をさせたのです。黄蓋は船に積み込んだ薪にたっぷり油を染みこませておき、曹操軍の船団に合流しようとしたところで船に火を放ちました。火はあっという間に燃え広がり、曹操軍は大混乱に陥ります。周瑜はたまらず上陸して逃げようとする敵軍を追撃し、さらなる大ダメージを与え、赤壁の戦いは孫権・劉備連合軍の大勝利で終わったのです。

早すぎる死、そして三国志演義での描かれ方

image by PIXTA / 12258438

赤壁の戦いでの大勝利の美酒に酔う暇もなく、周瑜は弱った曹操を叩くべくすぐに動き出しました。しかしその矢先、彼は突然の病に倒れ、あっけなくこの世を去ってしまうのです。三国志演義での描かれ方の違いなども加えて解説していきましょう。

これからというときに…突然の死

その後、周瑜は荊州南部への勢力拡大を目論み、曹操配下の曹仁(そうじん)と一戦交えることになります。この戦いで彼は脇腹に流れ矢を受けて負傷しますが、それでも戦場を去ることなく指揮を続け、見事勝利を収めました。

傷が完治しない中、周瑜はなおも精力的に動き続けます。赤壁の戦いのダメージから曹操が回復しないうちにたたみかけようとしたのです。そのためには、劉備によって攻められている益州(えきしゅう/四川省や陝西省)を先に奪い取り、強力な独立勢力だった馬超(ばちょう)を同盟した上で曹操を攻めようということになり、孫権も了承していたのですが…なんと、周瑜はその準備の過程で病に倒れ、急逝してしまったのでした。まだ36歳という若さでした。

悲報に接した孫権は悲しみに暮れ、周瑜の棺を自ら出迎え、葬儀はすべて負担したそうです。それから19年後、孫権は呉の皇帝として即位しますが、その折には「周瑜がいなければ、私は皇帝になることはできなかった」と言ったと伝わります。

三国志演義での周瑜はヒステリックで嫉妬深い!?

ところで、これまで解説してきたのは、主に歴史書に残された周瑜像。エンタメとして巷に親しまれてきた三国志演義での周瑜は、少々雰囲気が違います。

赤壁の戦いでは、諸葛亮の超人的な力の前に歯噛みするような役回り。諸葛亮の才能が人知を超えていることに嫉妬し、なんとかして彼の命を奪おうと画策したり、10万本の矢を用意しろという難題をふっかけたりします。しかしうまくいかず、かえって諸葛亮のすごさだけが強調されることとなり、周瑜は嫉妬で地団太を踏むほどです。負傷してからも幾度となくそんな場面があり、そのたびに傷が破れて倒れてしまうのでした。

結局、諸葛亮にかなわなかった周瑜は、「私を生まれさせておきながら、なぜ天は諸葛亮をも生まれさせたのか!」と叫び、憤死してしまうのです。かなり違う描かれ方ですよね。

しかし、この周瑜はあくまで三国志演義の中でつくられた周瑜です。本当の彼なら嫉妬するなどありえないことなど、ここまで解説を読んでくれた方にはおわかりかと思います。

「王佐の質」を持った完璧な家臣・周瑜

image by PIXTA / 46247099

王をサポートする人材として得難い存在だった周瑜。その才能は「王佐の質」と称されました。他にも多くの優秀な武将はいましたが、周瑜ほどバランスの取れた存在はいなかったのではないでしょうか。孫権の死後、呉は急速に弱体化していきますが、もし周瑜がもう少し生き永らえていたなら、三国志の勢力図は変わっていたかもしれません。それほどまでに、周瑜の存在というのは大きかったと考えてもいいと思いますね。

1 2 3
Share: