オスマン帝国の衰退とナポレオンの台頭
小アジアに生まれたオスマン帝国は、ビザンツ帝国を滅ぼしアジアとヨーロッパにまたがる広大な領土を支配する帝国として繁栄しました。しかし、17世紀以後、オスマン帝国は衰退期に入ります。オスマン帝国が混迷を深めていた18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパではフランス革命が勃発。革命の混乱の中からナポレオンが台頭しました。
アルバニア傭兵の副隊長としてエジプト入りしたムハンマド・アリー
ムハンマド・アリーは、マケドニア地方の都市カヴァラで生まれました。ムハンマド・アリー自身は、自分の生年を1769年としています。正確な民族系統は不明ですが、アルバニア系とされることが多いですね。
ムハンマド・アリーの父親は街道警備を担当するアルバニア人非正規部隊の隊長でした。ムハンマド・アリーが幼いころに父は亡くなり、母の縁者だったカヴァラ市長官のもとで成長します。
1798年、イギリスの通商路遮断を目的としてナポレオン軍がエジプトに侵入しました。当時、エジプトはオスマン帝国の領土で、現地の有力者であるマムルークたちが支配しています。オスマン帝国はフランス軍と戦う軍隊を増やすためムハンマド・アリーが副隊長をつとめていたアルバニア人部隊をエジプトに派遣しました。
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衰退するオスマン帝国
1683年の第二次ウィーン包囲の失敗と1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国の領土拡大は停止。18世紀にはオーストリア、ロシアなどがオスマン帝国の領土に侵攻するようになります。特にロシア帝国の南下政策の勢いは強く、オスマン帝国は領土を次々と奪われました。
また、18世紀末にアラビア半島ではイスラム教原理主義を掲げるワッハーブ派が勢力を拡大。ワッハーブ派はリヤドの豪族であるサウード家と手を組んでオスマン帝国に反旗を翻しました。アラビア半島で勢力を拡大したワッハーブ派はワッハーブ王国を建国。イスラム世界の重要都市であるメッカ・メディナの二大聖都やシリア・イラクにまで勢力を拡大します。
内憂外患ともいえるこの状態に対応するため、オスマン帝国は国内改革をする必要がありました。しかし、かつては精鋭部隊だったイェニチェリは特権階級と化して改革に抵抗。アーヤーンという地方の有力者は富を蓄え、オスマン帝国にとって脅威となりつつありました。
フランス革命とナポレオン
1789年、フランスでブルボン朝の絶対王政に反発しフランス革命がおこりました。国王ルイ16世は処刑され、フランスは共和政になります。周辺諸国は急進的なフランス共和国に強い警戒感を抱きました。
フランス革命が最も過激だったのは1793年から1794年にかけの国民公会の時代です。ジャコバン派のリーダーとなったロベスピエールは、封建的地代の無条件廃止など急進的な政策を次々と実行。反対する人々をギロチンで処刑する恐怖政治を展開しました。
1794年、フランスでは穏健共和派が力を取り戻し、総裁政府をつくります。しかし、総裁政府は旧王党派や革命を徹底させるべきだとする勢力などによって攻撃され、非常に不安定でした。
貴族たちを倒し、土地を手に入れた農民たちはこれ以上の革命の進展を望まず保守化。社会を安定化させる人物の到来を待ち望みます。そこに登場したのがナポレオンでした。
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ナポレオンのエジプト遠征失敗
1769年、ナポレオンはコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれました。成長したナポレオンはフランス本土の兵学校に入り、フランス共和国の軍人となります。1793年、トゥーロン攻囲戦で功績をあげたナポレオンは24歳にして旅団陸将(少将相当)に任じられました。
1795年、パリで王党派が蜂起するヴァンデミエールの反乱が発生します。ナポレオンは司令官バラスの副官として王党派の反乱に対処しました。ナポレオンは大胆にも市街地で大砲を使い、反乱軍を鎮圧します。この功績でナポレオンは国内軍司令官となりました。
1798年、ナポレオンはフランスと常に敵対してきたイギリスに大打撃を与えるため、植民地インドとの連絡地となっていたエジプトに遠征しました。
1798年7月、ナポレオン軍はピラミッドの戦いでエジプトを支配するマムルーク軍に勝利します。しかし、アブキール海戦に敗れ制海権を失い、エジプトに孤立しました。ナポレオンはエジプトから単身帰国。ブリュメール18日のクーデタで政権を握ります。