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傭兵隊長からエジプト総督に上り詰めた「ムハンマド・アリー」を元予備校講師がわかりやすく解説

ギリシア独立戦争への介入

1453年にビザンツ帝国が滅亡して以来、ギリシアはオスマン帝国の支配下にありました。19世紀にヨーロッパでフランス革命がおき、各地の民族運動が刺激されます。ギリシア人の間でもオスマン帝国からの独立を目指す動きが活発化しました。

フランス革命の影響を受けたギリシア人たちは友愛協会を設立。1821年にオスマン帝国からの独立を目指して戦いを始めます。ヨーロッパではロマン主義の風潮が強まっていたこともあり、ギリシア独立を支持する人々が多数いました。彼らは義勇兵としてギリシア独立戦争に参戦します。

激しさを増す独立運動に手を焼いたオスマン帝国はムハンマド・アリーに援軍を要請しました。司令官となった勇将イブラヒムはギリシア軍を相手に連勝します。しかし、ナヴァリノ海戦でギリシア独立を支援したイギリス・フランス・ロシアの艦隊に敗北。ギリシア独立を認めざるを得なくなりました。

二度にわたったエジプト=トルコ戦争

ギリシア独立戦争後、ムハンマド・アリーは戦争支援の功績としてクレタ島とキプロス島を与えられました。しかし、ムハンマド・アリーはそれだけでは満足せずシリアの領有権を主張。オスマン帝国との対立を深めました。

1831年、ムハンマド・アリーはオスマン帝国からの独立を目指して開戦します(第一次エジプト=トルコ戦争)。オスマン帝国はロシアに支援を要請。ロシアの地中海進出を警戒したイギリスとフランスがオスマン帝国に圧力をかけ、シリアの支配権をエジプトに譲らせます。

1839年、オスマン帝国はシリアに出兵し奪還を目指しました。エジプト軍はネジブの戦いでオスマン帝国軍に勝利。勢いに乗じたムハンマド・アリーは、オスマン帝国にシリアとエジプトの世襲支配権を要求しました(第二次エジプト=トルコ戦争)。

エジプトの勢力拡大を見て、強い警戒感を抱いたのがイギリスです。イギリスはオーストリア・ロシア・プロイセンなどとともにオスマン帝国を支援。エジプト軍はイギリス軍に敗れ、全占領地を放棄し退却しました。

ムハンマド・アリー朝の成立

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1840年、イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアとオスマン帝国がロンドン会議を開催します。会議で、ムハンマド・アリーはエジプト総督とスーダン総督の世襲権が認められました。エジプトはオスマン帝国の宗主権を認めつつも、事実上独立します。この時できたムハンマド・アリーに始まる王朝をムハンマド・アリー朝といいました。英主ムハンマド・アリーの死後、エジプトは財政破綻しイギリスやフランスに植民地化されるようになります。

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