エジプトの支配者にのし上がるムハンマド・アリー
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ナポレオンのエジプト遠征により、エジプトは大混乱に陥りました。混乱状況に乗じてエジプト支配者の地位に上り詰めたのがムハンマド・アリーです。ムハンマド・アリーはエジプト最大の抵抗勢力であるマムルークをシタデルの虐殺で一掃し、権力基盤を固めました。また、ムハンマド・アリーはエジプトを西洋にも匹敵する強国とするため、富国強兵策を実施します。
エジプト総督への就任
ナポレオンのエジプト遠征失敗後、イギリスがエジプトに駐留していました。1803年、イギリスとフランスはアミアンの和約を締結。イギリス軍がエジプトから撤退します。権力の空白地帯となったエジプトでは、次の支配者をめぐる争いが激しさを増しました。
このころ、エジプトではオスマン帝国が派遣した総督、親英派のマムルーク、反英派のマムルークが三つ巴の対立をしています。これに、ムハンマド・アリーが属するアルバニア人傭兵団が加わりました。
1803年5月、カイロで暴動が起きた時、アルバニア人傭兵の司令官が殺害されます。かわってアルバニア人傭兵の司令官となったのがムハンマド・アリーでした。
ムハンマド・アリーはマムルークたちと手を組み、オスマン帝国が派遣してきた総督の力を封じ込めます。ついで、マムルークを首都カイロ周辺から遠ざけました。その上で、ウラマー(イスラム法学者)やカイロ市民を味方につけ、自分がエジプト総督となります。
シタデルの虐殺で反対勢力を一掃
ナポレオンのエジプト遠征以前、エジプトではマムルークとよばれる人々が権力を握っていました。マムルークとは、もともと奴隷身分出身の軍人たちのこと。13世紀中ごろ、マムルークたちはエジプトで支配階級となりました。
1517年、オスマン帝国の攻撃によりエジプトのマムルーク朝は滅亡します。しかし、支配者階級としてのマムルークは残存し、エジプト社会で大きな影響力を行使しました。エジプト総督となったムハンマド・アリーは、マムルークたちを一掃する策を考えます。
1811年、オスマン帝国の要請によりアラビア半島に出兵することになりました。ムハンマド・アリーは遠征軍の司令官任命式を口実にマムルークをカイロ市内の居城(シタデル)に呼び寄せ殺害。カイロ市内のマムルークの邸宅や各地のマムルークの拠点を襲撃させ、マムルーク勢力を一掃します。
ムハンマド・アリーが実施した富国強兵策
マムルークたちを一掃し、エジプトで中央集権体制を確立したムハンマド・アリーは、エジプトを近代国家にするための富国強兵政策に邁進します。
最初にムハンマド・アリーが手を付けたのは農業改革。もともと、エジプトはナイル川の恵みにより、豊かな農業生産力を誇っていました。ムハンマド・アリーは、商品作物として高値で売れる綿花に着目。灌漑用水を整備して綿花の栽培を奨励し経済力をつけました。
同時に、エジプト全土の土地調査を実施。政府が農民たちから直接税をとる仕組みを作り上げます。確実に現金収入を得る道筋を作ったうえで、近代産業の育成を図りました。そのために、外国自技術者を多数導入。紡績業や織物業、兵器の生産などに力を入れます。このあたりは、日本の明治維新によく似ていますね。
中東の覇者を目指して
富国強兵により国力を増したムハンマド・アリーは、中東全域に支配権を拡張すべく、周辺諸国への外征を行いました。オスマン帝国の要請によりアラビアのワッハーブ王国を攻撃したのを皮切りに、ギリシア独立戦争への介入や宗主国オスマン帝国との二度にわたる戦争をします。最初は順調な領土拡大でしたが、欧米列強の介入などもあり、エジプトは中東全域を支配する覇権国家にはなれませんでした。
ワッハーブ王国を滅ぼしたアラビア遠征
衰退しつつあるオスマン帝国にとって、頭が痛い問題が二つありました。一つは、ムハンマド・アリーによるエジプトの事実上の独立。もう一つは、アラビア半島で勢力を拡大し、メッカ・メディナの二大聖都を占拠するワッハーブ王国の存在でした。
オスマン帝国はムハンマド・アリーにワッハーブ王国討伐を要請します。オスマン帝国としては、敵対勢力同士を戦わせて互いに弱らせようとしたのかもしれません。ムハンマド・アリーはオスマン帝国の要請を受け入れ、アラビア半島に遠征軍を派遣しました。
宗教的情熱に裏打ちされたワッハーブ王国の土豪連合軍は非常に強力です。これを打ち破るのに活躍したのがムハンマド・アリーの長男であるイブラヒムでした。イブラヒムは近代的な装備を持つエジプト軍を率い、ワッハーブ王国の土豪連合軍に勝利し、ワッハーブ王国を滅ぼしました。