六波羅探題は何のため?設置までの歴史を振り返る
「ろくはらたんだい」……一度聞いたら忘れなさそうで覚えにくそうなこの役職が登場したのは、今から800年ほど前のことでした。場所は京都、キーワードは「鎌倉幕府」と「朝廷」と「承久の乱」です。何だかスケールの大きな話になってきましたね。不思議な名前の組織「六波羅探題」とは?設置までのいきさつや時代背景について詳しく解説いたします。
朝廷vs鎌倉幕府:承久の乱に勝利した武士たち
六波羅探題(ろくはらたんだい)とは、鎌倉幕府の役職のひとつ。
1221年(承久3年)に起きた「承久の乱(じょうきゅうのらん)」の後、京都に設置された「鎌倉幕府の出先機関」の名称です。
この「承久の乱」という戦が、日本の歴史上、大変意味のある大きな出来事でした。
鎌倉幕府をつぶして朝廷主体の時代を取り戻そうとした後鳥羽上皇と、源氏の血筋が途絶えた後も幕府を盛り立てていた北条氏との間で起きた大戦。これが「承久の乱」です。
先にけしかけてきたのは後鳥羽上皇のほう。後鳥羽上皇は第82代天皇に即位した人物で、かなり有能な人物だったと伝わっています。当時の朝廷は、かろうじて朝廷という体は保っていましたが、長年、継承者争いや内輪もめが続発。悔しいけれど鎌倉幕府にやり込められっぱなしな状態が続いていました。
武士のカリスマ・源頼朝が起こした鎌倉幕府。その息子たちも亡くなり、源氏の血筋が途絶えた今こそチャンス!とばかりに、倒幕の狼煙を上げたのが後鳥羽上皇だったのです。
いくら力を失ってヘナヘナだったとはいえ、朝廷は朝廷。天皇に弓引くなど、当時の日本では考えられないことでした。「絶対勝てる」と高をくくっていた後鳥羽上皇でしたが、ふたを開けてみたら幕府側の大勝利。京都に攻め込まれ、上皇は隠岐へ。島流しの刑となってしまうのです。
武士が朝廷に勝利した!これは天地がひっくり返るほどの大事件。日本はこれからどうなってしまうのでしょうか。
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武士・鎌倉幕府の台頭と朝廷の権力の低下
そもそも、なぜ承久の乱は起きてしまったのでしょうか。「六波羅探題」の話題から少しそれますが、時間をほんの少し戻して、時代背景を探ってみましょう。
承久の乱が起きる前の鎌倉幕府と朝廷の関係はというと、「朝廷は朝廷」「鎌倉幕府は鎌倉幕府」と、西と東に分かれてそれぞれ独立したような状態が続いていました。
長年、京都で公家たちに虐げられ、つらい思いをしてきた武士たち。平安時代末期に、そんな状況を打開し武士の時代を築こうと立ち上がったのが源頼朝でした。
京都で絶大な力を誇っていた平家を打ち破り、確固たる地位を築いた源頼朝。御家人たちを「守護」「地頭」と呼ばれる役人として全国に派遣し、荘園の統括管理をやらせます。単身赴任サラリーマンのような武士の誕生。主な仕事は年貢の取り立てなどの実務と、各領地の治安維持のための警護でした。
しかし……現代社会にも通じることですが、最終的には「オフィスビルの中で会議ばかりしているひとより現場で頑張っている人」ということになるのでしょうか。守護や地頭たちは次第に現地で力をつけ、自分たちの取り分を増やしたりし始めます。
当然、公家たちは不満たらたら。現地に出向いて警備や雑務ができるわけではないので強くは言えませんが、このままではどんどん年貢が減ってしまいます。
そんな時代に暗躍したのが、あの後鳥羽上皇でした。
後鳥羽上皇といえば「神器なき即位」天皇として知られる人物。このことも、後鳥羽上皇を承久の乱に書き立てた要因の一つではないか、と考えられているのです。
どういうことかというと……まだ後鳥羽上皇が幼かったころのこと。源平合戦のさなか、平家の残党とともに西に逃れた安徳天皇が、皇位の璽(しるし)とされ代々伝えられてきた「三種の神器」とともに壇ノ浦に沈んでしまうというだ事件が起きます。剣だけ回収できず、後鳥羽上皇は、三種の神器がそろわないまま元服。粛々と受け継がれてきた皇族の伝統が、源平合戦のときに失われてしまったのです。
神器ないままの即位。これを「天皇の不徳」と見るような世の中。だから何だ!神器がなくても問題ない!後鳥羽上皇(天皇)は神器がないことがマイナスにならないよう、強い朝廷であり続けようと力を尽くします。
そこへきて、頼朝が鎌倉幕府を開き、平家にとって代わって源氏と北条がチョロチョロし始め、荘園の年貢をかすめていくものだから怒り心頭。バカにしやがって!とブチ切れるのも無理はありません。
こうしたことの積み重ねが承久の乱のきっかけを作り、結果的には、武士の勢力を強めることとなってしまったのです。
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朝廷を監視する機関が必要!六波羅探題の誕生
前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本題です。
承久の乱に勝利した鎌倉幕府。
戦場となった京都では、幕府の家臣たちが派遣され、後鳥羽上皇に味方した公家や武士たちの処罰が続けられていました。
まさか幕府が勝利するなど思いもせず、後鳥羽上皇に味方した武士も多かったのです。
一方、朝廷に弓引くことになろうと懸命に戦った幕府軍。こちらに味方した御家人たちには、手厚い恩賞が与えられていました。
具体的には、後鳥羽上皇や、後鳥羽上皇に味方した者たちの領地を没収し、戦に貢献した御家人たちに与えたのです。
それらの領地のほとんどは、鎌倉幕府からかなり距離がある、西方面の土地ばかり。大きな戦争に勝利したことで、広大な領地を管轄しなければならなくなった鎌倉幕府。電話もネットもない時代ですから、鎌倉からではなかなか目が行き届きません。
もともと、京都にも、朝廷との連絡係や都の監視などをするための「京都守護」と呼ばれる幕府機関が置かれていました。
しかし天皇(この場合は上皇)が戦を企てるなど、ゆゆしきことが起こる昨今。もっと強力な監視体制をとらなければ、という話になります。
そして、1221年(承久3年)、承久の乱のすぐ後に、京都守護に手を加えてパワーアップさせて誕生したのが「六波羅探題」だったのです。
どんなことをする役職だった?六波羅探題の基本情報
六波羅探題は、承久の乱の後、京都を監視するために設けられた幕府の機関。武士が朝廷に勝利するという大きな出来事のさなか誕生した、歴史的にも大きな意味のある役職でした。本格的な武士の時代の到来を物語るキーワードと言ってもよいでしょう。では次に、六波羅探題という役職がどのようなものだったのか、詳しく見ていきたいと思います。
六波羅探題は誰が始めた?
承久の乱のようなことは二度と起こしたくない。そんな思いから設置された六波羅探題。
朝廷の動向を監視するべく、鎌倉幕府は京都白河の六波羅という場所の北と南に監視機関を設置します。この場所にはもともと、平清盛の屋敷があったのだそうです。
そしてここに北条泰時と北条時房を派遣します。
当時の鎌倉幕府はというと、源氏の血筋はすでに途絶えており、北条氏が実権を握っていました。北条氏とは、源頼朝の妻・北条政子の実家です。
承久の乱~六波羅探題設置の頃に執権として幕府を取り仕切っていたのは、北条政子の弟にあたる北条義時でした。
六波羅探題の北方に派遣された北条泰時は義時の長男。南方に派遣された北条時房は義時の異母弟に当たります。自分の弟と長男を派遣した北条義時。朝廷の監視が重要課題であったことが伺えます。
以後、1333年に後醍醐天皇が倒幕を旗印を挙げるまで、代々、北条一族の実力者たちが担当していました。
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