茶々丸が生まれた堀越公方家を取り巻く状況
足利茶々丸は、堀越公方・足利政知(あしかがまさとも)の長男として誕生しましたが、堀越公方を取り巻く状況は非常に複雑でした。そこには、京都に拠点を置く室町幕府と、関東統治を行う鎌倉府との対立があったのです。ここでは、堀越公方を知るために、その誕生と室町幕府の内紛の流れをご説明します。
堀越公方誕生の背景その1:鎌倉府の設置
足利茶々丸の生まれた年は、はっきりとはわかっていません。文明年間(1470年代)に生まれたと考えられており、堀越公方・足利政知の長男として生まれました。
ここではまず、堀越公方についてご紹介しましょう。
そもそも、室町幕府は関東統治のために鎌倉府を設置し、そこのトップとして初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の四男・基氏(もとうじ)を送り込みました。これが鎌倉公方という存在です。それを支える鎌倉府のナンバー2が関東管領(かんとうかんれい)で、これには代々上杉氏が就きました。
京都にいる将軍と鎌倉にいる鎌倉公方、二元統治のような状態となったわけです。鎌倉公方は将軍家の者ですから、本来ならば将軍に尽くすはずですが、そうもいかない事態がすぐに起こってしまいました。
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堀越公方誕生の背景その2:鎌倉公方の反乱
そもそもは、5代将軍・足利義量(あしかがよしかず)とその後見役である父・足利義持(あしかがよしもち)が後継者を決めないまま亡くなってしまったことが原因でした。重臣たちはくじ引きの結果に後継者を委ね、こうして誕生したのが6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)だったのです。
ただ、これに不満を持ったのが、鎌倉公方・足利持氏(あしかがもちうじ)でした。彼も将軍家の血を引く者と言う自負がありましたし、義教はもともと僧侶から還俗した身でしたので、自分にこそ将軍職を継ぐ権利があると主張したのです。
これで起こった持氏の反乱は「永享の乱(えいきょうのらん)」と呼ばれ、室町幕府と鎌倉府の争いとなってしまいました。
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堀越公方誕生の背景その3:古河公方に対抗するために誕生
ただ、永享の乱は持氏の自刃で幕が引かれ、その息子・足利成氏(あしかがしげうじ)が鎌倉公方となりました。しかし成氏は自分を支えるはずの関東管領をつとめる上杉氏と対立し、「享徳の乱(きょうとくのらん)」が起こってしまうのです。
成氏は鎌倉を放棄して古河に移ると「古河公方(こがくぼう)」となりました。関東管領側を支援していた幕府は、対抗策として、8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の異母兄を僧から還俗させて新たな鎌倉公方として送り込みます。これが、茶々丸の父・政知なのです。
ところが、政知は戦乱続きの関東へすんなりと入ることができず、鎌倉の手前となる伊豆(静岡県)の堀越に留まることとなり、これで「堀越公方」が誕生したのでした。
両親から冷遇され、土牢に軟禁されたままの少年時代
素行が悪かったという茶々丸は、継母が父にそのことを讒言したせいで、土牢に軟禁されるという不遇の少年時代を過ごします。彼の廃嫡を庇ってくれた重臣も父の命令によって自害させられ、彼には全くと言っていいほど味方がいませんでした。忘れられた存在となった彼を尻目に、時代はどんどん進んでいきます。茶々丸の少年時代と当時の出来事をご紹介しましょう。
素行不良の問題児だった茶々丸
足利成氏の起こした享徳の乱は、約30年もの長きに渡って続きました。
文明14(1482)年、幕府と成氏が和睦を結んで乱は収束したのですが、これで宙に浮いてしまったのが、堀越公方の存在です。古河公方は健在なわけですから、政知は非常に不安定な立場となってしまいました。
このような動乱の中に生まれ育った茶々丸ですが、幼い頃から素行不良の問題児だったと伝わっています。実母は早くに亡くなってしまったようで、父には新しい正室がおり、弟たちも生まれていました。