継母と折り合いが悪く、土牢に軟禁されてしまう
継母との関係は、いつの時代でも必ずしもうまくいくとは限りません。茶々丸も継母・円満院(えんまんいん)とは折り合いが悪かったのか、なんとこの円満院は政知に茶々丸の悪評を吹き込み、土牢に入れさせてしまったというのです。茶々丸は廃嫡され、継母の生んだ潤童子(じゅんどうじ)が跡継ぎと定められてしまいました。
これが本当なら、いくら茶々丸が素行不良とはいえ、ひどい話です。どこかに幽閉するなどでもいいのに、牢屋に入れてしまうなんて…。
廃嫡に反対した家臣が父に自害を命じられる
ただ、茶々丸の廃嫡に異を唱えた人物もいたのです。それが、父・政知の側近である上杉政憲(うえすぎまさのり)でした。しかし、政憲のきびしい進言に対し、政知はなんと彼に自害を命じてしまったのです。
というのも、政知は政憲に恨みがあったそうで…。享徳の乱の終結に際し、彼は幕府と関東管領、そして古河公方との和睦の取りまとめに大きな役割を果たしたのですが、この和睦によって堀越公方の領地は伊豆一国のみとなってしまったからなのです。
しかし、家臣の諫言に自害の沙汰で応じる主君もいかがなものかと思います。
政憲の自害により、牢に入れられた茶々丸の味方は誰もいなくなってしまったかに見えました。父・政知は、潤童子を堀越公方に、さらにその弟・清晃(せいこう/当時は僧となっていた)を将軍として、ライバルである足利成氏を討伐しようと考えていたと言われており、茶々丸の存在などとうに忘れてしまっていたのです。
継母と弟を殺して脱獄、権力を握るもあっけなく敗れ去る
父の死後、茶々丸は脱獄して継母と弟を殺し、実質上の堀越公方となります。しかし、彼は側近の意見を取捨選択できるほど成熟しておらず、讒言を真に受けて重臣を殺してしまうなど、求心力を失っていきました。そして、伊勢宗瑞(いせそうずい)の進攻の前に敗れ、短い生涯を終えることとなるのです。
継母と弟を殺して脱獄
延徳3(1491)年、父・政知が亡くなりましたが、継母の円満院による虐待はその後3ヶ月ほど続いたと言われています。それに耐え続ける中、茶々丸はある決意をしました。それは、脱獄だったのです。
ある日、茶々丸は牢番を殺して脱獄しました。そして弟・潤童子と円満院のもとに向かい、彼らを殺害すると、事実上の堀越公方となったのです。捕らわれの不良少年が一気に権力を握った瞬間でした。
権力は握ったが…茶々丸に欠けていたもの
公方の長男とはいえ、茶々丸はまだ元服さえ済ませていません。どうして彼が堀越公方になることができたのでしょうか。
おそらく、彼を支援する勢力は存在したと思われます。どこにでも、お家が分断されればそれぞれに属するものですからね。
これで茶々丸が善政を行えば、ヒーローとして格好もついたのですが…いかんせん、彼は少年から脱していませんでした。しかも、牢に入れられていた期間が長く、領地を統治するような広い視野が十分に養われていたとは考えにくいのです。
となると、そんな茶々丸のそばによろしくない輩も出てきます。彼らの言うことが善か悪か、真か嘘か、茶々丸には判断できませんでした。
讒言を信じて重臣を殺害し、求心力を失う
一部の側近の讒言を信じた茶々丸は、なんと、筆頭家老などの重臣を殺害してしまいました。
これでは支持されるわけがありません。茶々丸は急速に求心力を失っていきました。
そんな状況で、明応2(1493)年、幕府の命令を受けた伊勢宗瑞が、伊豆の混乱に乗じて攻め込んで来たのです。彼は後の北条早雲(ほうじょうそううん)ですが、ここでは伊勢宗瑞で統一します。
この直前、京都では明応の政変が起き、管領・細川政元が10代将軍・足利義材(あしかがよしき)を追放し、茶々丸の異母弟・清晃が11代将軍の座に就き、足利義澄(あしかがよしずみ)となっていました。その義澄が宗瑞に対し、母と弟の敵討ちを命じたのだとも言われています。
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