- 1.藤堂平助の生い立ち
- 1-1大大名の御落胤だった?
- 1-2平助の性格
- 2.剣の腕はここで磨いた
- 2-1千葉周作の北辰一刀流の中目録を取得
- 2-2新選組へ繋がる試衛館の食客となる
- 2-3平助が持っていた剣は名刀「上総介兼重」だった
- 3.若くして新選組に入隊し名を揚げる平助
- 3-1浪士組に参加し京へ向かう
- 3-2新選組結成メンバーとなる
- 3-3スター続出?池田屋事件
- 4.池田屋事件後の平助
- 4-1新選組を脱退する平助
- 4-2新選組脱退後の平助
- 4-3暗殺される伊東甲子太郎
- 4-4近藤と土方の考え方の違い
- 4-5油小路で無念の死を遂げる平助
- 24歳で命を散らした白梅は、人生に満足していたのでしょうか?
この記事の目次
1.藤堂平助の生い立ち
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藤堂平助は新選組の八番隊組長に任ぜられるも、若くして命を落としたためか、沖田総司や永倉新八などのようにさほど注目を集めておらず、個人としての記録はほとんどありません。新選組の隊士には、脱藩などの理由から自らの存在を隠すものも多く、幕末の動乱期にあり素性が分からない人物も多かったのです。推測を交えながら、藤堂平助の生い立ちからお話ししましょう。
1-1大大名の御落胤だった?
藤堂平助は、天保15(1844)年9月12日に、府内(江戸)で誕生したちゃっきちゃきの江戸っ子です。正式な名前は、「藤堂平助宣虎(とうどうへいすけよしとら/のぶとら)」。出自については諸説あり、はっきりしたことは分かっていませんが、永倉新八の『同志連名記』の中に「府内浪人・藤堂和泉守落胤」と記載されています(落胤:身分・地位のある男性が、正妻以外の女に密かに生ませた子)。
母は、藤堂家が幕府から拝領した6万坪もの下屋敷があった、駒込の花屋の娘だったようです。平助が美少年だったことから、伊勢津藩第11代藩主の藤堂高猷(とうどうたかゆき)を虜にするほどの美貌の持ち主だったといわれています。
ちょっと雑学
藤堂家宗家は、皆さんご存知戦国武将藤堂高虎(とうどうたかとら)が初代です。高虎は何度も君主を変え、秀吉が亡くなった直後から家康に接近し、関ヶ原では東軍に属し京極高知と大谷吉継隊を相手に活躍しています。もし父藤堂高猷の落胤が本当なら、藤堂平助は高虎の子孫になるんです。
1-2平助の性格
学問にも秀でていた平助は論客で、悪名高い弁論家だったとか。新選組最年少幹部でしたが、年長者にも堂々と意見を述べ丸め込むほど雄弁で、「弁よりも行動で示せ」という武士社会では煙たい存在だったのでは?でも、平助は武勇にも優れており、新選組内では悪評はなく「弁論家の藤堂」と呼ばれ親しまれたようです。北辰一刀流には、坂本龍馬や石坂周造、清河八郎など、何故か論客が多いとか。
平助は、知謀に富み、戦闘能力に優れた荒くれ物との印象が強いようです。近藤勇にも品行などで、激しく叱責されています。猛々しい上に、反逆児らしい行動もとっていたようです。
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2.剣の腕はここで磨いた
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平助は幼い頃から文武両道で、剣の腕前もかなりのものでした。勇猛果敢に立ち向かう性格は、剣術を学ぶ上で身に付けたのでは?この章では、「魁先生」と呼ばれた藤堂平助の実力を培った青年期を探ってみたいと思います。
2-1千葉周作の北辰一刀流の中目録を取得
北辰一刀流の道場は、江戸府内にたくさんあったようです。平助が通った道場は、北辰一刀流の本拠「玄武館(げんぶかん)」で、この中でも腕前はずば抜けていたとか。通い始めたのは10歳ごろと推定され、安政6年平助が16歳のころに、2代目から一人前の証となる「中目録の免許」を貰っています。でも、この頃の玄武館は、初代千葉周作が亡くなり、混乱・衰微していたのです。平助は免許取得を機に、玄武館を去りました。
北辰一刀流や他の流派の道場に、頻繁に顔を出し始めます。平助が選んだのは、伊東甲子太郎の道場でした。初代千葉周作の流れを汲む道場はたくさんあったものの、この時に住んでいた家に近い深川佐賀町の伊東道場しか来訪せず、伊東甲子太郎とは運命の糸で結ばれます。
ちょっと雑学
千葉周作の北辰一刀流は、多彩な技を繰り出し相手を圧倒する技量を有する流派です。一刀流は「突き」を中心とした技が得意と、他流派に知られていました。突き中心の技をかなぐり捨てて、瞬時の判断で多彩な技を繰り出し敵を圧倒する技量を柱にするなんて、大剣客千葉周作だからできたのでしょう。
平助は池田屋での激闘でも、「突き」は使っていなかったことが、愛刀の破損状況から分かっています。面をはじめ籠手、胴、首など、敵を次から次へと斬ったようです。背が低いのに「面」を得意技のひとつとしており、面は切羽詰まった戦いではなかなか使えるものではなく、かなりの腕前だったことが分かります。勇猛果敢な志士平助は、剣術はもちろん学問もでき、小柄の美少年で立ち姿は「白梅」のように美しかったようです。