中国の歴史

権力闘争を勝ち抜き明の全盛期を築いた皇帝「永楽帝」の生涯をざっくり解説!

長い長い歴史を持つ中国大陸。過去には様々な統一王朝が誕生し、名だたる皇帝を輩出してきました。何人か思い当たる名前はあるものの、王朝の名前や実際の功績となかなか結び付かないこともありますよね。そこで今回の記事では、15世紀に明王朝の皇帝となり明の全盛期を築いた永楽帝を取り上げ、生涯や功績などについて詳しく解説してまいります。

明王朝開祖の四男・朱棣(永楽帝)の生い立ち

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永楽帝(えいらくてい)は明王朝第3代皇帝で、在位中に明の領土を広げるなど、大きな影響力を持った偉大なる人物です。また、日本との貿易を行い、室町幕府3代将軍足利義満とやり取りがあった皇帝ということで、日本でも知名度が高い人物。大変な秀才だったとも伝わっています。どんな人物だったのか、さっそく、生い立ちから若いころの永楽帝の様子について見ていきましょう。

利発で勇敢・誰もが認める将来有望な若武者

永楽帝は1360年、朱元璋(しゅげんしょう・後の洪武帝)の四男として生まれました。

皇帝になる前の名前は、朱棣(しゅてい)といいます。

父・洪武帝は1351年に起きた紅巾の乱(こうきんのらん)の主要人物の一人。紅巾の乱とは、漢民族の王朝を復活させるべく、前王朝である元を倒すきっかけとなった農民の反乱です。みんな赤い頭巾をかぶっていたので、このような名称で呼ばれています。

そんな偉大なる父が初代皇帝となり、1368年に明王朝がスタートしました。

朱棣(永楽帝)は子供のころから大変優秀で、ずば抜けた記憶力を持ち、一度読んだ本の内容は忘れなかったとの逸話も残るほど。でも永楽帝は四男。皇帝の後継者になる可能性は低かったと思われます。

1370年、朱棣は北平(現在の北京のあたり)へ赴任。明は南京という都市を拠点にしていましたので、だいぶ遠くへ飛ばされた感じになりました。

北方方面というとこのころはまだ、洪武帝たちに追いやられた元の残党がモンゴル高原を中心に再起を狙って活動中。北の地をしっかり守ることは、非常に重要な役目であり、おそらく洪武帝は朱棣の能力を認めていたのでしょう。

朱棣は幼いころから、頭が良いだけでなく勇敢で聡明な少年だったのです。

権力闘争の渦中に・「靖難の変」で甥と対決

以前、北京のあたりは燕国という国があったため、この当時の朱棣のことを「燕王」と呼ぶこともあります。

朱棣は北部で20年近く、北方民族の脅威から国を守り続け、大きな成果を上げていきました。

そんな中、1398年に父・洪武帝が崩御。洪武帝の長男・朱標は数年前に死去しており、2代目皇帝には朱標の子の建文帝が即位します。

当時まだ16歳だった建文帝。即位後、側近たちは建文帝の権力をより強固なものにするよう画策し始めました。すなわち、他の皇帝候補たち(兄弟や叔父、甥っ子など)の排除です。

おそらく、燕王として功績をあげてきた朱棣は、特に警戒されていたでしょう。建文帝の側近たちと朱棣の間でいざこざが起こり、これに反発した朱棣は1399年についに決起。「靖難の変(せいなんのへん)」を起こして建文帝に挑みます。

叔父と甥、北と南で争われた靖難の変は3年にも及びました。

軍事的には、燕王・朱棣のほうが圧倒的な力を持っていました。力でねじ伏せるだけなら、それほど期間をかけずに朱棣が勝利をおさめたに違いありません。しかし朱棣の心の中にはどこか「自分たちは皇帝にたてつく謀反人である」という負い目のようなものがあったようです。大儀を持たない戦。兵士たちのモチベーションも今一つ上がらなかったものと思われます。

長きにわたる内乱の結果は、朱棣が勝利。1402年、朱棣は第3代皇帝・永楽帝となります。

南京から北京へ~永楽帝、紫禁城へ入る

明の首都は南京ですので、永楽帝が南京に入るのが自然な流れです。

しかし永楽帝は、靖難の変の後、都を南京から北京(北平)に移すと言い出します。

燕王として長い間拠点にしてきた北京のほうが土地勘があると思ったのか、あるいは武力で建文帝を追い出したことに負い目を感じていたのか……。とにかく永楽帝の時代から、明の都は北京へ移ることになりました。

北京(元の頃は大都)には、元のフビライが建設した宮殿がありました。永楽帝は1406年から数年かけてこの宮殿を大々的に改築し、巨大な城を築きます。紫禁城です。

現存する建物の多くは17世紀に清王朝によって再建されたものなのだそうですが、永楽帝の時代にはすでに、巨大な城郭が出来上がっていたものと思われます。

北京への遷都は、永楽帝の威厳を示すためであったのかもしれません。

紫禁城が完成すると、永楽帝はさっそく移住。北京が都として本格的に機能し始めたのは、1421年頃からだといわれています。

明王朝全盛!永楽帝の内外政策とは

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たぐいまれなる才能を発揮し、力づくで皇帝の座を手に入れた永楽帝。その勢いは、内政統治にも対外政策にも活かされていきました。ただその一方で、独裁者と揶揄されることも少なくなかったようです。次に、皇帝に即位してからの動きや流れについて詳しく解説します。

強い国づくりを!領地拡大と異民族討伐

父・洪武帝はどちらかというと、農業政策など内政強化タイプの統治を目指していたといわれています。

一方の永楽帝は、領地拡大に積極的。軍事力を強化し、モンゴルやチベット、ベトナムなど、北にも西にも南にも軍勢を派遣していきます。

当時、モンゴル高原ではタタールとオイラトという二つの部族が力を持っており、たびたび明の国境付近まで攻め込んできては領地を脅かして脅威となっていました。

永楽帝はモンゴル高原に自ら出兵し、タタールとオイラトの制圧に成功します。城から指示を出すのではなく、皇帝自ら前線に出向くなど、四千年もの歴史を持つ中国といえどそうそうあることではありません。しかも永楽帝は西の砂漠を超えて進軍しています。こんなに広範囲に活動した皇帝がいたでしょうか。そんな遠征を、永楽帝は5度も行っているのです。

この様子を称えた言葉に「五出三犂(さんれい)」というものがあります。

「五度沙漠に出で三たび慮庭(北虜の本拠地)をたがやす」という意味。「犂」とは田畑の土を耕す道具名にもなっている「すき」のことです。実際には、本当に田畑を耕すのではなく、本拠地を崩す様子を表現。永楽帝が自ら出兵したことに敬意を表して言った言葉といわれています。

外交もばっちり:権威ある朝貢貿易

永楽帝は武力以外の方法でも明の力の大きさを示していました。

東南アジアやインドなど、服従させた国々と朝貢(親分と子分のような、貢物を献上する側とされる側の関係)関係を構築。これにより、周辺諸国が次々と交易に訪れるようになります。

強引なやり方が特徴の永楽帝、身近な重臣たちとうまくいっていなかったのか、たびたび宦官(かんがん)たちを活用していました。

宦官とは、王朝の宮廷に仕える去勢された男性のこと。中国の歴代王朝以外にも、古代エジプトやペルシャなどにも宦官制度はありました。皇帝のすぐそばに控えていることが多いため、大きな権力を持って好き放題することもあり、重臣たちから疎まれることも多かったのです。

永楽帝の対外政策には、宦官たちが使者を務めるなど重要な役割を担っていました。

さらに、一時うまくいっていなかった日本との交易も復活。1404年には室町幕府足利義満から永楽帝即位を祝う使節が送られてきます。これに永楽帝も応じ、朝貢貿易が盛んにおこなわれるようになって、巨万の富を得た室町幕府の地位は確固たるものとなったのです。

絶対的な力を持っていたと思われがちな永楽帝ですが、全戦全勝というわけではありませんでした。時には運も味方します。

例えばティムール帝国。中央アジアを席巻する、モンゴル帝国の流れを組む強国です。元の領地回復を目論むティムールとの関係は険悪なものであり、一戦交えればどうなっていたかわかりません。ただ、永楽帝が即位してまもなく、建国者のティムールがこの世を去ったため、戦わずして友好関係を築くことができたのです。

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