権力闘争を勝ち抜き明の全盛期を築いた皇帝「永楽帝」の生涯をざっくり解説!
北方防衛線と万里の長城
永楽帝統治下では、明は大いに繁栄しましたが、度重なる対外親征でかなりの財政難に陥っていたともいわれています。
北京への遷都にも莫大なお金がかかっていたはずです。
結果的には、この後もずっと、北京が首都となっていくので、遷都は成功だったと思われますが、それにしても相当たくさんお金を使ったと思われます。
反発する勢力もあったでしょうが、遷都も紫禁城建設も領土拡大もやり遂げた永楽帝、やはり只者ではありません。
紫禁城と並んでもう一つ、永楽帝の時代に大きく変わった建物があります。万里の長城です。
明の前の元(モンゴル帝国)は漢民族ではなく北方の異民族による王朝なので、国境を守るべく築かれていた万里の長城を必要としていませんでした。
しかし永楽帝の時代に入ると、遠くへ追いやった異民族たちの動向が気になります。
国境を脅かされないよう、きっちり守りを固めておく必要が出てきたのです。
そこで再び脚光を浴びたのが、秦の始皇帝の時代からコツコツ築かれてきた万里の長城。基本的には城や壁というより土塁のようなものだった長城を、永楽帝の時代から徐々に、現存するような石造りの強固なものに変えていきます。
ただし、万里の長城が強固な城塞に作り変えるには相当な年数がかかり、膨大な人員が必要です。実際には。永楽帝よりかなり後の時代までかかりました。
1424年、北京への遷都が完了して間もないころ、永楽帝は5回目のモンゴル遠征の際に、65歳で亡くなります。最期まで第一線で活動し続け、明の礎を築いた皇帝は、志半ばにしてこの世を去りました。
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中国の観光名所としても知られる世界遺産・万里の長城が、現存するような石造りの城壁になったのは明の時代からだということは、何度か聞いたことがありました。決して平らかではないアップダウンの激しい丘陵地に、あれほどまでに巨大な城壁を築くとは。しかも、大きくて固いだけでなく、見た目も壮麗で美しいときたら、これを築かせた皇帝はどれほどの権力者かと誰もが脅威に感じるはずです。65歳でこの世を去るまで戦地に立ち続けたという永楽帝。もっと長生きしていたら、歴史が大きく変わっていたかもしれません。