稀代の天才!平賀源内の生涯とは
歴史に詳しくなくても、江戸時代の天才発明家・平賀源内の名前くらいは聞いたことがある、という方も多いと思います。学者や劇作家として有名になってからの平賀源内のことはよく知られていますが、幼少の頃はどのような生活を送っていたのでしょうか。まずはそんな平賀源内の生い立ちから晩年までを追いかけてみましょう。
斬新なアイディアは幼少期から:平賀源内の生い立ち
平賀源内(ひらがげんない)の生まれは讃岐国(現在の香川県のあたり)と言われています。
父は讃岐高松藩の藩士・白石茂左衛門。享保13年(1728年)、源内は白石家の三男坊としてこの世に生を受けました。
白石家はもともと、信濃国(現在の新潟県のあたり)を拠点とする「平賀氏」という豪族だったそうですが、戦国時代、甲斐の武田家に攻め込まれて滅亡。白石姓に改めて東北や西日本などを転々とした後、讃岐に落ち着いたと伝わっています。
そんな白石家ですくすくと育った源内少年。幼少の頃の記録は少ないですが、早くから発明家としての片鱗を覗かせていたようです。
源内は11歳になった頃、「お神酒天神」という名の掛け軸を創作しています。一見、座した天神様を描いた普通の掛け軸のように見えますが、頬の部分だけ丸くくり抜かれており、裏に仕込んだ赤い紙と肌色の紙を紐で引っ張ることで天神様の頬が赤くなる、という「からくり掛け軸」。目の前に御神酒をお供えすると、その重みで紐が引っ張られ、まるで天神様がお酒を飲んで酔っ払ったように見える、というわけです。
何ともオマセな掛け軸を作ったものですが、この「お神酒天神」が大人たちの間で大変な評判に。これをきっかけに源内少年の目の前に、本草学(東洋の漢方・医薬学)や儒学、蘭学や絵画など様々な学びの道が開かれていきます。
21歳のとき、父が他界し、家督を継ぐことに。このとき白石姓から平賀姓に改めたといわれています。高松藩士としての務めを果たすかたわら、俳人としても活躍していたのだそうです。
もっと広い世界で学問を:若き日の平賀源内
平賀家の当主として忙しい日々を送っていたと思われる源内青年でしたが、学問への情熱は高まる一方でした。
24歳になった頃、源内は藩の外で学ぶ道を選びます。藩命で長崎へ出向いて蘭学や医学を学び、妹に婿を取らせて家督を譲った後は京都や大阪など大都市で学ぶことを決意するのです。
源内は様々な学問に着手しながら、27歳の頃に「磁針器(方位磁石・方角を測定する道具)」や「量程器(ヨーロッパ製の歩数計を改良したとされる歩数計)」などを発明し世に送り出しています。
宝暦6年(1756年)、28歳となった源内はついに江戸へ。本草学者の田村元雄(藍水)に弟子入りし、本格的に本草学を学び始めます。
平賀源内の学問は、机上だけにとどまりません。長崎遊学で得た鉱山に関する学問をもとに、伊豆で鉱脈を見つけたこともありました。
さらに、師匠の田村元雄を説き伏せて、江戸・湯島で大規模な薬品会(物産展や博覧会、展示会のようなイベント)を開催。動植物や鉱物などを多数収録した図鑑の発行なども手掛けます。こうした活動の積み重ねで、平賀源内の知名度はどんどん上がっていったのだそうです。
彼の名は当然江戸城にも。時の権力者・老中田沼意次の耳にも入ります。源内は36歳の頃に「平線儀(水平を示す道具)」や「火浣布(かかんぷ・石綿入りの燃えにくい布)」などを発明し、幕府に献上。現代にも通じるような斬新なグッズを次々に開発していきます。
発明から図版の発刊、文筆や図画などの文芸関連の活動まで、平賀源内の名前は江戸中に知れ渡っていきました。
駆け抜けた52年の生涯:晩年の平賀源内
平賀源内と聞いて「エレキテル」という単語を思い浮かべる方も多いでしょう。
「エレキテル」とは「摩擦起電器」のこと。要するに静電気を発生させる装置のことです。
ただし、エレキテルは平賀源内が発明したものではありません。これはもともと、オランダで発明されたもので、当時はまだ実用化されていたわけではなく、一部で医療機器として使われているほかは、見世物として扱われていました。1750年代に入ってから、オランダ人が日本に持ち込んだものと考えられています。
エレキテルというものの存在を知った平賀源内は、明和7年(1770年)、壊れて動かなくなったエレキテルを入手。7年余りの歳月をかけてこれを修復します。源内はこのとき、48歳になっていました。
様々な発明で著名人となった平賀源内。あるとき、とある大名屋敷の修理を頼まれます。この作業が平賀源内の運命を大きく変えてしまうのです。
事の顛末については諸説あるそうですが、修理計画書を盗まれたと勘違いし大工の棟梁2人とトラブルになり、殺傷事件へと発展してしまいます。このとき平賀源内は酒に酔っていたのだそうです。
源内は小伝馬町の牢獄に投獄され、獄中死してしまいます。
享年52歳。友人たちが遺体の引き取りを申し出ましたが、幕府から許可が下りず、正式な埋葬も墓碑を立てることもなかったのだとか。もしかしたら脱獄してどこかで生きていたのでは……。平賀源内の死の真相については、現在でも諸説あげられ、はっきりしていないのだそうです。
日本のエジソン!江戸時代の天才・平賀源内の功績とは
藩の外に出ることなど考えられなかった時代に、武士としての役目を捨て、生涯を学問と発明に傾けた平賀源内。相当なアイディアマンであったことは容易に想像がつきます。しかも、ただ書物を読んだり研究をしたりするだけでなく、鉱山に出向いたり植物採集をしたり、日本各地を飛び回るというフットワークの軽さも相当なものです。そこで次に、そんな平賀源内の功績について、改めて探ってみたいと思います。
エレキテル:平賀源内の名を後世に残すこととなる珍名品
「平賀源内=エレキテル」というイメージが強いですが、先ほども述べた通り、エレキテルは平賀源内の発明品ではありません。
オランダで作られた静電気発生装置。これが、鎖国時代の日本にオランダ人によってもたらされました。
形状は、いわゆる「箱」のようなもの。内部にライデン瓶と呼ばれるガラス瓶が設置されており、外側に取り付けたハンドルを回すと瓶の中に蓄えられた電気が銅線を伝って放電する、という仕組みになっています。
しかしまだ当時は、ただ単に「ビリビリっと音や光が飛び散って電気が発生する」というだけのものでした。電球や電熱器など、電気を利用した道具や装置はまだありませんでしたので、具体的に電気を活用してどうのこうの、という段階には至っていなかったのです。
エレキテルの主な利用分野は医療。あとは、ビリビリっと電気が発生したところを見せて観客をびっくりさせるという、いわゆる見世物的な存在でしかありませんでした。
平賀源内はオランダのことを紹介した書物でエレキテルの存在を知り、興味を持ったようです。あちこち探しまわって壊れて動かなかくなったエレキテルを手に入れ、それを模して7年物歳月をかけ、試行錯誤の末、エレキテルの復元に成功します。
エレキテルを復元することはできましたが、当時の平賀源内をしてもまだ、電気の科学的な仕組みは理解できていなかったようです。何かしら不思議な力が働いて箱の中がバチバチっとなる……。平賀源内が復元したエレキテルも、電気によるビリビリ治療や見世物などに活用されましたが、基本的には「珍しいもの」であり、一般的な実用品とまでは至っていませんでした。
ただ、当時は単なる珍品に過ぎませんでしたが、電気に関する情報がほとんどなかったこの時代に、電気をおこす機械を作ることに成功したのです。日本国内にある身近な材料だけでも、工夫次第で便利な道具を作り出すことができる。それこそが、平賀源内が残した最大の功績と言えるのかもしれません。
またの名を風来山人:ベストセラー戯作者・平賀源内
エレキテルをはじめとする数々の発明品の印象が強い平賀源内ですが、その才能は多方面にも及んでいました。画家、俳人、劇作家、浄瑠璃作家、さらに殖産事業家として数々の事業を展開する際に使っていた名前など、様々な別名を持って活動をしていたといわれています。
この時代の江戸の町は、市井の人々の間で歌舞伎や浄瑠璃、浮世絵などが大人気に。多くの人気作家が活躍していましたが、平賀源内もそのうちの一人として創作にいそしんでいました。
その際、源内はさまざまなペンネームを使い分けていたと伝わっています。
まず「風来山人(ふうらいさんじん)」。洒落本や人情噺など、戯作(げさく)と呼ばれる通俗小説を書くときに使っていた筆名です。『風流志道軒伝』などの読み物を刊行し、人気者となりました。
さらに「福内鬼外(ふくうちきがい)」というウィットにとんだ名前も。こちらは浄瑠璃作家として活動するときの名前だったようです。
また、俳句を詠む際の俳号は李山(りざん)、書画に入れる画号は鳩渓(きゅうけい)という名前を使っていました。
ほかにも、殖産家として天竺浪人(てんじくろうにん)と名乗ったり、内職で生活費を稼いでいたときは貧家銭内(ひんかぜにない)と名乗ったりと、自分の名前で遊ぶ傾向があったようです。
平賀源内は、浮世絵や浄瑠璃などを世に広めた功労者の一人に数えられることもあります。人気作を作り出すだけでなく自分自身をプロデュースする能力にも長けていた平賀源内。只者ではないようです。