ギリシャヨーロッパの歴史古代ギリシャ

ギリシア最強として君臨した軍事国家「古代スパルタ」を元予備校講師がわかりやすく解説

ヨーロッパ文明の母体として、その後の歴史に大きな影響を与えたギリシアのポリス。中でも、アテネと並んで有名なのがスパルタです。スパルタ教育という言葉でも知られるこのポリスは、ギリシア世界最強の陸軍国としてギリシア全土にその名をとどろかせました。今回は、古代スパルタの歴史について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

古代スパルタのなりたち

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紀元前1200年頃、ギリシアの北方から侵入したドーリア人は各地を征服しつつ、ペロポネソス半島に到達しました。半島南部のラコニア地方に到達したドーリア人たちはスパルタを建国します。紀元前6世紀半ばころ、スパルタでは軍国主義体制が成立しました。この体制を伝説の指導者の名をとりリュクルゴスの制といいます。

ドーリア人のポリス、スパルタ

紀元前1200年から紀元前1100年頃にかけて、ギリシアの北方からドーリア人とよばれる人々が侵入してきました。ドーリア人は先にギリシアに定住していたアイオリス人やイオニア人、アカイア人らと並んでギリシアを構成する主要な民族となります。

ドーリア人が侵入したころの記録はほとんど残されておらず、詳しいことはあまりわかっていません。そのため、この時代のことを暗黒時代と呼びます。暗黒時代の間に、ギリシアではポリスとよばれる都市国家がつくられました。

ギリシアは山がちで、農業に適した土地が少なかったため、オリエントのような広大な専制君主国家は出現しません。そのかわり、大小200ほどのポリスがギリシア各地につくられました

ドーリア人たちは主にペロポネソス半島にポリスを作ります。中でも、スパルタは最強の都市国家となりました。

スパルタの建国

ドーリア人たちの一部はペロポネソス半島南部ラコニア地方に自分たちのポリスであるスパルタを作り上げました。スパルタ人たちは自らをラケダイモンとよびます。

紀元前8世紀ころ、スパルタ人はラコニア地方と近隣のメッセニア地方のほぼすべてを併合。これらの地域に昔から住んでいた人々を支配しました。

スパルタの完全市民はスパルティアタイとよばれます。30歳以上の男子スパルティアタイは民会に出席することができました。民会では5人の監察官や長老会のメンバーなどを選出しました。スパルタでは国王が二人。2つの家柄から世襲的に選ばれ、6か月交替で祭祀や軍事を主宰します。

スパルタ人に支配された周辺の人々はペリオイコイとよばれました。このほかに、ヘイロータイ(ヘロット)とよばれる隷属農民がいます。スパルタではペリオイコイやヘイロータイが商工業・農業といった生産活動を担い、スパルティアタイは戦いに専念しました。

リュクルゴスの制と軍国主義

スパルタの完全市民であるスパルティアタイは軍人として過酷な試練に耐え、戦闘に勝利することを目指す特別な階級でした。スパルティアタイは重装歩兵として戦います。

スパルティアタイはヘイロータイやヘロットに比べると圧倒的に数が少なく、10分の1しかいませんでした。そのため、彼らは多数の被支配者に負けないよう、常に厳しい軍事訓練を課され、生活の全てが戦いを意識しものとなります。この厳しい教育がスパルタ教育の語源ですね。

また、スパルティアタイ同士で争わないようにするため、土地は均等に配分され、装飾品などを廃止します。誰か一人がとびぬけることで争いが起きることを防ごうとしたのではないでしょうか。また、軍事訓練や共同食事制を採用することで、スパルティアタイ同士の結束を固めます。

こうした軍事最優先の政治体制を伝説上の指導者の名をとりリュクルゴスの制といいました。スパルタはペリオイコイやヘイロータイが反乱を起こす都度鎮圧し、徹底的に支配します。

戦いで活躍するスパルタ

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軍国主義により強力な陸軍を作り上げたスパルタは、ギリシア各地の戦いで活躍します。中でもスパルタの名を高めたのが、大国ペルシア(ペルシャ)との戦争でした。テルモピュライの戦いではわずか300の兵士でペルシア軍と激闘。スパルタ軍は全滅したものの、勇猛な戦いぶりはギリシア中に勇気を与えます。プラタイアの戦いでペルシア軍を追い払った後、ギリシアの盟主となったアテネと対立。ペロポネソス戦争でアテネを下して、スパルタはギリシアの覇者となりました。

ペルシアの大軍にわずか300の兵で立ち向かったテルモピュライ(テルモピュレー)の戦い

紀元前480年、ペルシア王クセルクセス1はギリシア本土侵攻を決定。陸路と海路からギリシア本土を目指しました。そのうち、陸軍を迎え撃ったのがスパルタ王レオニダス率いるスパルタ軍と同盟ポリスの軍です。

スパルタ軍はペルシア軍のギリシア本土侵攻を阻止するため、狭隘なテルモピュライに布陣しました。クセルクセス1世はギリシア軍が圧倒的に少数であるのをみて、力押しすれば勝てるだろうと考えます。

ところが、密集体系で狭い道を守るスパルタ軍はペルシア軍の攻撃を何度も撃退しました。増大する自軍の損害に業を煮やしたクセルクセス1世は一部の部隊に抜け道を突破させ、スパルタ軍の背後を遮断します。

スパルタ王レオニダスはスパルタ軍300とテスピアイ軍700、テーベ軍400とともに戦場に残り、挟み撃ちされ、他のポリスの軍が撤退・降伏する中でも戦いを続けました。

結局、スパルタ軍300はこの戦いで全滅。レオニダス王も戦死します。しかし、スパルタ軍の勇猛な戦いはペルシア兵を恐れさせ、ギリシア人たちを奮い立たせました。

ペルシア軍を追い払ったプラタイアの戦い

テルモピュライの戦いで勝利し、ギリシア本土への道を開いたペルシア軍は中心部のアテネ方面へと進出しました。しかし、サラミス海戦によってペルシア海軍がアテネ海軍に大敗したため、ペルシア陸軍の進撃は停止。内陸へと移動します。

スパルタ・コリント・アテネを中心とするポリス連合軍はペルシア陸軍を追ってプラタイアに進軍しました。ペルシア軍は大軍の有利を生かそうと、ギリシア軍を挑発します。

しかし、ギリシア軍が挑発に乗らないため、ペルシア軍は騎兵を用いてギリシア軍の水源を破壊しました。水源破壊に動揺したポリス連合軍は夜のうちに撤退を開始します。しかし、スパルタ軍は夜のうちの撤退はしないとして朝になってようやく撤退を開始しました。

スパルタ軍が孤立する姿を見たペルシア軍は総攻撃を開始します。ところが、スパルタ軍は単独でペルシア軍の攻撃を撃退。さらに、ペルシア軍を追撃し敵将を討ち取ってしまいました

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