放射能研究のパイオニア・キュリー夫人の生涯とは
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キュリー夫人と聞いて「放射能」や「ラジウム」といった単語を思い浮かべる方も多いでしょう。キュリー夫人はその分野の開拓者であり権威であり、2度もノーベル賞(物理学賞と化学賞)を受賞しています。歴史的功績も大きい、今でこそ誰もが知る偉人とされているキュリー夫人ですが、成功までの道のりは大変険しいものでした。まずはキュリー夫人の生い立ちから追いかけてみることにいたします。
貧しくとも教育を:優秀だった少女時代
キュリー夫人は1867年、ポーランドのワルシャワで生まれました。
生誕当時の名前、つまり旧姓はマリア・サロメア・スクウォドフスカといいます。
のちにキュリーという男性と結婚し、その後ノーベル賞をとるなど数々の業績を重ねていったため「キュリー夫人 (Madame Curie) 」と紹介されることが多いですが、実家の姓は「スクウォドフスカ」です。
また、名前も「マリー・キュリー」または「マリ・キュリー」と表記されることが多いですが、これはフランス風の呼び方なのだそうで、ポーランドではもともと「マリア」と呼ばれていました。
父は大学で教鞭をとる科学者で、母も女学校などに勤める教育者。マリーは5人兄弟の末っ子。幼いころから聡明で記憶力抜群の才女だったのだそうです。
しかし、マリーの幼いころの暮らしは決して平穏とはいえないものだったと伝わっています。
当時のポーランドは事実上、帝政ロシアの支配下にありました。1814年から1815年に開かれたウィーン会議(フランス革命とナポレオン戦争終結後の領土分割などを目的とした国際会議)によって、それまでナポレオンが治めていたワルシャワ公国はポーランド立憲王国と名を変え、衛星国としてロシアの一部に組み込まれていたのです。
ロシアはポーランド国内の知識階級の動きに目を光らせていました。マリーの両親も例外ではありません。母も父も下級貴族の家柄でしたが、教育者である父は住居を取り上げられ、職を失い、母の病なども重なって、生活は貧窮。そんな中でもマリーは学ぶことを諦めませんでした。
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貧しさに耐え苦学の末にソルボンヌ大学へ
当時はまだ、女性が大学など高等教育の場に進学する機会の少ない時代。マリーはギムナジウムという中等教育機関を優秀な成績で卒業しましたが、大学への進学はかなわず、学校職員や家庭教師などをして家計を支えていました。
その頃のポーランドには、女性でも入学できる「さまよえる大学」と呼ばれる教育組織(ワルシャワ移動大学)があり、マリーは姉とともにそこで学ぶ機会を得ます。
苦しい生活を送りながら、大学で学ぶ楽しさを実感するマリー。そして1891年の秋、マリーはパリへ移り住み、ソルボンヌ大学への入学を果たします。
花の都・パリでも、マリーは屋根裏部屋に下宿し、倹しい生活を続けていました。
マリーは目鼻立ちのはっきりとした美しい顔立ちをしており、大学でも非常に目立つ存在だったと伝わっています。彼女に求愛する男性も少なくなかったようですが、マリーにとっては華やかな社交界より勉学第一。男性たちからの誘いを断り、いつかポーランドに戻ることを夢見て学業に専念したのだそうです。
永遠の伴侶:ピエール・キュリーとの出会い
大学を卒業したマリーは、研究者としての道を歩み始めます。
様々な実験研究を請け負って収入を得ることもできるようになりましたが、倹約生活を続け、得た賃金は奨学金の返納や貯金に充てていたのだそうです。
1894年、マリーは知人の紹介でピエール・キュリーというフランス人科学者と出会います。
ピエールは電荷や磁気の研究分野で注目されていた若き天才。出世や名誉には興味を示さず、ただひたすら研究に没頭する、実直を絵にかいたような人物でした。
同じく磁気関連の研究を受託していたマリー。二人は研究を通して心を通わせるようになります。
堅物で研究一筋。女性に興味を示すことなどなかったピエールでしたが、倹しい生活をしながら研究を続ける聡明なマリーに心惹かれていきます。一方のマリーも、ピエールの人柄に好意を抱いたようで、これはもう、研究題材であった「磁気」が二人を引き寄せていったと考えてもよいのかもしれません。
1895年、ピエールとマリーは結婚。マリーにとってピエールは夫であり、愛する人であり、研究の同志でもあったのです。
苦難を乗り越え得た栄誉~物理学者・キュリー夫人
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1895年、キュリー夫妻はパリのアパートで新生活を始めます。
もともと、実験や研究一筋だったピエールとマリー。夫婦になってもその真摯な姿勢は変わりませんでした。
キュリー夫妻は結婚後も研究に没頭。マリーは熱心に研究を進めながら家事もこなしていたのだそうです。
1897年に長女イレーヌ誕生。育児と家事に追われながら、マリーは精力的に研究をこなしていきます。
この頃、マリーは博士号を取得しようと考えていました。そのテーマとしてキュリー夫妻が目を付けたのが、ウラン塩が放つ光線。1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルが発表した放射現象で、ウランが他のエネルギーに頼らず自然発光していることは確認できていましたが、光の正体や原理はまだ謎のままだったのです。
この現象の原理は何なのか、ウラン特有の現象なのか、マリーの挑戦が始まりました。
のちに偉大な成果を挙げるキュリー夫妻ですが、当初の研究施設といったらまるで倉庫。暖房設備もない粗末なものでしたが、二人はここで様々な実験や研究に取り組んでいきます。他人が見れば粗末だと感じる施設でも、二人にとっては何ものにも変えがたい場所だったのでしょう。
愛する夫と二人三脚で挑む研究の日々
マリーは粗末な研究施設の中で、現存する80以上もの元素をひとつひとつ測定。トリウムという元素でも放射現象が見られることを突き止めます。
研究一筋のキュリー夫妻ではありましたが、成果はできるだけ早く公表するべきである、という意識は常に持っていました。こうした事象は、遅かれ早かれ他の科学者が発見する可能性があります。1898年、マリーは発見した内容を論文にまとめ、科学アカデミーに提出。その後もさらに、この現象について研究を進めます。
ここでマリーは、これらの物質の放射を「放射能」と呼び、このような現象を起こす元素を「放射性元素」と名づけました。現代ではごく一般的に使われているこれらの単語は、マリーによって名づけられたものだったのです。
この分野での更なる高みを求めて研究を続けたマリーは、1898年に「ポロニウム」と「ラジウム」という新しい元素を発見。しかし学会に発表するためには膨大な量の実験をこなさなければなりません。元素といっても要は鉱物です。実験に使うための素材を鉱山などから取寄せなければならず、それだけでも相当な時間と費用がかかります。
何もかも始めてづくし。学校教師などをして研究費や生活費を稼ぎながら、キュリー夫妻は未曾有の研究に打ち込んでいきます。
膨大な時間と労力と費用をかけた研究の成果が認められ、1903年、キュリー夫妻はノーベル物理学賞を受賞。
マリーは女性初のノーベル賞受賞者となったのです。