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「キュリー夫人」は何を発見した人?功績や生涯を解説ーご主人も娘も物理学者なの?

女性初のノーベル物理学賞を受賞

苦楽を共にしてきた夫・ピエールと一緒に、栄誉あるノーベル物理学賞を受賞。長年の苦労が報われる瞬間です。男女差別が色濃く残る時代に、多くの有識者たちの後押しもあり、マリーの研究成果が認められる運びとなりました。

現在、放射能を測定する単位には「ベクレル(Bq)」が用いられます。これはウランの放射現象を発見したアンリ・ベクレルにちなんだもの。ベクレルも1903年にキュリー夫妻とともにノーベル物理学賞を受賞しています。

さらにマリーは同じ年、パリ大学で理学博士を取得。もともと、博士号を取るために始めたウランの研究がノーベル賞へとつながっていったのですから、マリー・キュリーという女性がいかに偉大であったか伺えます。

マリーは女性で始めてノーベル賞を受賞しただけでなく、フランスにおいて女性で始めて博士号を取った人物としても名を残すこととなりました。

ノーベル賞受賞の翌年、1904年には次女エーヴが誕生。忙しい中でも、マリーが研究から離れることはなかったと伝わっています。

しかし、幸せな時は長くは続きませんでした。

1906年、愛する夫・ピエールが事故に巻き込まれて亡くなってしまうのです。

ピエールの突然の死と2度目のノーベル賞受賞

悲しみの中、マリーはピエールの研究を引き継ぐことを誓います。

そんな彼女を支援する声が大きい一方で、マリーが女性であること、ポーランド人であることなどから、差別的な目で見られることも多かったようです。1907年には、科学アカデミー会員に推す話も挙がりましたが、結局、選挙で落選してしまいます。

マリーがアカデミー会員になりたかったどうか定かではありませんが、まだまだ差別の多い時代。ピエールの教え子との不倫の噂が立つなど、とても落ち着いて研究に打ち込むような状況ではありませんでした。

そんな中、1911年にマリーのもとに2度目のノーベル賞授与の連絡が入ります。今度は化学賞。ポロニウムやラジウムといった新しい元素の発見を大きく評価してのものでした。

女性で始めてのノーベル賞受賞者であり、2度、それも異なる分野で受賞した最初の人物という偉業。しかし一方でマリーはスキャンダルの渦中にあり、うつの症状に悩まされるようになります。

1914年には研究所を新しく建てますが、第一次世界大戦によって研究は一次中断。戦中は自身の研究成果をレントゲン設備などに応用し、医療活動に従事しています。

しかし当時はまだ、放射能が人体に与える影響については深く知られていませんでした。

長年、放射性物質と直接向き合ってきたマリーは、1930年代に入るとたびたび体調不良を訴えるようになります。そして1934年7月、マリー・キュリー死去。死因の詳細は公表されていないようですが、再生不良性貧血が影響していると言われています。

1935年には、長女イレーヌが夫と共にノーベル化学賞を受賞。マリーが築いた研究所からは、イレーヌ夫妻をはじめ数多くの研究者たちが誕生していったのです。

あくなき探求心!苦難を乗り越え道を切り開いたキュリー夫人

image by iStockphoto

科学者であり、妻であり、母であり、女性であり……様々な顔を見せながら、放射能研究に人生をささげたキュリー夫人。まだ女性が第一線で活躍するなど珍しい時代、現代人には想像つかないほど注目を集めたに違いありません。心無い中傷も多かったことでしょう。それでも真摯に研究と向き合い、物理学の発展に大きく貢献。さらに家庭を守って二人の娘を立派に育て上げたところが、偉大な女性偉人として称えられ続ける所以であると改めて感じました。

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