実はどうしようもなかった?革命直前のフランスの状況
ルイ16世が統治した18世紀フランスは財政が破綻していたと言っても過言ではありませんでした。
ルイ16世の二代前の国王であるルイ14世は北アメリカでイギリスと、スペイン王位継承戦争でハプスブルク家と戦争を継続した結果、領土は拡大したもののそれに費やした戦費で国はてんてこ舞い。さらにヴェルサイユ宮殿の造営や、父であるルイ15世も七年戦争に介入したりフレンチ=インディアン戦争で北アメリカの利権を喪失したりするなどフランスはいいとこなし。利益を得ることができなかったおかげで無駄にお金だけが消えていったという悲惨な状態だったのです。
そんなフランスの被害のしわ寄せが民衆を襲います。いわゆる第三身分と呼ばれていた民衆たちは重税をかけられており、国に対する反感は日に日に高まっていました。
そんな時にルイ15世の跡を継いで国王に即位したルイ16世。そして国王の位とともに莫大な財政状況も重くのしかかることになるのです。
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マリーアントワネットとの結婚
ルイ16世とともに憎まれ役として知られているのが王妃であるマリーアントワネット。マリーアントワネットは元々ハプスブルク家の女帝であるマリアテレジアの娘だったのですが、この頃オーストリアはドイツのプロイセンと敵対状態にあり、この状態を打開しようと長年何かと敵対していたフランスブルボン家と婚姻関係を結ぼうという話となったのです。
そこで1770年当時皇太子であったルイ16世とマリーアントワネットが結婚。この頃はまだ財政環境は浮き彫りになっていませんでしたので国民は祝福モードだったそうですが、これからわずか20年後には長年続く革命の火種となっていったのです。
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ルイ16世の政治改革
ルイ16世は貴族思想を持った人だと思われるかもしれませんが、実はルイ16世は民衆の生活をなんとかしようと努力していたことがわかってきています。
ルイ16世は1780年に拷問の廃止を命令したり、農奴制度を廃止して人道的な政治を目指しました。また啓蒙思想にも一定の理解を示しており、アンリ4世の時代から行われていなかった視察もルイ16世は盛んに行なっており彼がどちらかというと民衆的な思想を持っていたことがわかります。
さらに、ルイ16世はイギリスの勢力拡大を止めるという目的がありながらも自由を掲げているアメリカ合衆国に莫大な支援を行い、アメリカ独立戦争を勝利に導くなどの影響も与えているのでした。このようにルイ16世は民衆が良い生活を送るために努力を重ねていましたが、アメリカ独立戦争に介入したせいでただでさえ財政が破綻状態であったフランスがさらに財政が悪化し、さらにはアメリカ独立戦争の自由と民主主義という思想がフランスに流れていったことがフランス革命の一つの原動力となっていったのです。
ルイ16世が行なったことは思想的には悪くないことなんですが、この行動がルイ16世の最大の命取りとなる結果を招いてしまうことになるのでした。
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ルイ16世の財政改革
ルイ16世が王位に就いてから彼は必死にその財政を立て直そうと努力します。
ルイ16世は国王になってから4年後の1774年に財務の総てを司る財務総監にテュルゴーを任命。テュルゴーは重農主義と啓蒙思想に則った自由主義者であったのですが、この自由主義化によって既存の特権を奪われてしまうと危惧したフランスの貴族たちがテュルゴーを罷免に追い込んでいきます。ルイ16世は財政がやばいとフランスという国もやばくなると知っていましたのでテュルゴーの次にも第三身分であり民衆の人気があるネッケルを登用。浪費癖があったマリーアントワネットの浪費をなんとかしようと画策したり、貴族の特権を全廃止にしたりするなどフランスの財政改善向けて奮闘するものの結局貴族たちの反感を買ったことで罷免に追い込まれてしまいました。
こうしてズルズルと財政改革が行われないままフランス革命へと向かっていくのです。