ルイ16世とフランス革命
こうして財政改革が行われずにズルズルと引き伸ばされていくようになったフランス。しかし、この状態を見てフランス市民が黙って見ているはずはありませんでした。
ルイ16世はこの状態を見てしばらくの間行われていなかった三部会の開催を命令し、貴族に対する牽制を行うのですが、これは貴族たちの反対に会い失敗。それどころか三部会を開いたことによって市民による政治参加を促すようになり、最終的には1789年7月14日にパリでバスティーユ牢獄襲撃事件が発生。ルイ16世はこの日の日記に「何も無し」と記してしまいましたが、このバスティーユ牢獄襲撃事件によってフランス革命が起こってしまったのです。
こちらの記事もおすすめ
世界を大きく変えたフランスのビッグウェーブ!フランス革命について解説 – Rinto~凛と~
ヴァレンヌ逃亡事件
バスティーユ牢獄襲撃事件によってルイ16世を取り巻く環境は一変しようとしていました。
創建された国民議会によって封建制度の廃止法案を可決。さらにヴェルサイユ行進などではバリの女性らが食料を求めてヴェルサイユ宮殿に押しかけるなどフランスは大混乱に陥っていました。
ルイ16世はこのあまりにも急すぎる革命の動きについていけず、このままいけばピューリタン革命のチャールズ1世のような末路を迎えるかもしれません。そこでルイ16世とマリーアントワネットはマリーアントワネットの実家であるオーストリアに逃亡を計画。
オーストリアに逃れてなんとか生き延びようとするのですが、途中のヴァレンヌという場所で捉えられてしまうことになってしまいました。
これによって大激怒したのがフランス国民。これまで革命の動きというのはあくまでも国王を立てて憲法を制定するという立憲君主制という動きが強かったのに、ヴァレンヌ逃亡事件が起こったことによって国王を守ろうとする勢力は一気に衰退。さらには国王も処刑してしまうという過激派の動きは一層増していくことになるのでした。
国王裁判と処刑
こうして国民からの信頼を失ってしまったルイ16世。1792年8月10日には8月10日事件が起こり王権は停止され国王一家はテュイルリー宮からタンプル塔に幽閉されることとなりました。
名前もこれまでのルイ16世からルイ・カペーという名前となり不自由な生活を余儀なくされてしまいます。
しかし、国民議会ではルイ16世の処遇についての会議が開かれていました。これまでルイ16世の身分は保障する考えであった王党派の勢いがなくなったことによってルイ16世を処刑するという派閥が急上昇。
そして新しく作られた国民公会ではルイ16世の処遇を決める裁判が始まっていました。
第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われ、各議員は賛成693対反対28で有罪を認定。さらに即日死刑とした人が387と大多数を占めていたため即日の死刑執行が決定したのでした。
1793年1月21日。ルイ16世はコンコルド広場にてギロチンにらかけられ処刑。享年38歳。
ルイ16世の最期の言葉は「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」というフランスの未来への思いが込められた一言だった。
フランスのその後
ルイ16世を処刑した直後王妃であったマリーアントワネットも処刑。こうしてフランス革命は終わりを迎えたと思われていましたが、実際にはそんなことはありませんでした。
フランス革命はその後ロベスピエールの独裁政治となり、革命の理念は完全に崩壊することとなり、ナポレオン1世による独裁の後に再びブルボン家による王政に戻ることになりました。
王政復古によって新しく国王に即位したルイ18世は、国民公会の裁判に参加した455名の国民公会議員が大逆罪として議員はフランス国民という身分を剥奪されてしまい追放されました。
その後ルイ16世は歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に改葬され今に至ります。
ルイ16世はフランスの歴史の被害者であった
ルイ16世は革命の波に飲まれてしまい、最終的にはギロチンによって処刑されることになるのでしたが、ルイ16世は心優しく民衆の事を思った王様でありました。
ルイ16世は後世には気弱な王様として知られていましたが、ルイ16世はまさしく歴史によって殺された悲劇の人物だったのかもしれません。