与謝野鉄幹との出会いと結婚
明治時代のはじめ頃に大阪で生まれた与謝野晶子は20代の前半に彼女の人生に大きな影響を与えた与謝野鉄幹と出会います。鉄幹に惹かれる晶子は雑誌『明星』への投稿などを通じて鉄幹と仲を深めました。1901年、親の反対を押し切り晶子は上京。晶子の才能を見抜いた鉄幹は歌集『みだれ髪』の出版を支援します。晶子の上京の翌年、鉄幹は妻と離婚し晶子と結婚しました。
堺の商家の娘
1878年、世の中が西南戦争など士族反乱で揺れていた時代に晶子は大阪府堺市の商家の娘として生まれました。本名は鳳(ほう)志やう。現在知られている「晶子」は、本名の「しよう」からとったものです。
鳳家は堺市で和菓子屋の「駿河屋」を営んでいました。駿河屋は羊羹で有名な和菓子屋で店舗の一階は伝統的な商家、二階は洋風という和洋折衷形式の建物で欄間や廊下の障子に色ガラスがはめ込まれたハイカラな家だったようです。
しかし、晶子が生まれたころは家業が傾きつつありました。ちなみに、実兄の鳳秀太郎は東京帝国大学を卒業後に電気学会の学長を務めます。
現在、晶子の生家は残っていませんが晶子の生家があった場所には記念碑が建てられ、晶子の句「海こひし 潮の遠鳴りかぞへつつ 少女となりし 父母の家」が刻まれていますよ。
鉄幹との出会いと『明星』への投稿
9歳で漢学塾に入った晶子は琴や三味線などを習う一方、『源氏物語』などの古典も読むなど幅広い教養を身につけます。幸田露伴や尾崎紅葉、樋口一葉などの小説も読んでいたようですね。
20歳のころ、晶子は店番などをしつつ和歌を投稿するようになりました。そのうち、和歌の会などにも出席するようになります。晶子は浪華青年文学会に入会した晶子は新しい短歌を詠むようになりました。
1900年、短歌革新運動に取り組んでいた与謝野鉄幹が大阪にやってきます。この時、晶子は鉄幹の宿泊先に赴きました。翌日、晶子と鉄幹はそろって浜寺公園で開かれた歌会に出席。互いの距離が一気に深まります。その後、晶子は鉄幹が発行した雑誌『明星』に和歌を投稿するようになりました。
晶子がほれ込んだ与謝野鉄幹
晶子がほれ込んだ与謝野鉄幹とはどのような人物なのでしょうか。
与謝野鉄幹は1873年に京都府岡崎町に西本願寺の末寺である願成寺の僧侶の子として生まれました。1889年、山口県の徳山女学校で4年間国語の教員をつとめますが、女子生徒の浅田信子と問題を起こし退職します。退職後、浅田信子と結婚。信子と離婚後は同じく生徒だった林滝野と結婚しました。
京都に戻った鉄幹は歌人落合直文の門下に入ります。その一方で、跡見女学校で教員をつとめました。1897年、鉄幹が出した歌集『天地玄黄』は質実剛健な作風が高く評価されます。
1900年、鉄幹は雑誌『明星』を出版。『明星』には鉄幹や晶子をはじめ、北原白秋、石川啄木など多くの歌人が投稿。『明星』はロマン主義運動の中心的役割を果たします。鉄幹と晶子が出会ったのはまさに『明星』を出版した年で、文学者として鉄幹が脂がのっていた時期でした。
歌集『みだれ髪』の出版と鉄幹との結婚
1901年、晶子は親の反対を押し切って上京しました。『明星』への投稿や大阪での出会いで晶子が類まれな才能を持っていることに気づいていた鉄幹は晶子を積極的に支援します。
鉄幹は晶子が『明星』に投稿した作品を再編集し、歌集『みだれ髪』を出版しました。『みだれ髪』の歌には晶子の鉄幹への思いが込められた和歌が多数収録されています。
特に「やは肌の あつき血汐に ふれもみで さびしからずや 道を説く君」は有名ですね。晶子の和歌は女性の恋愛感情をストレートに表現したものでしたが、当時の風潮や道徳観からすると受け入れがたいものでした。晶子の和歌は「猥行醜態」で世の人々に害を与えると批判する者もいたほどです。
しかし、中には晶子の和歌を「詩壇革新の先駆」と擁護する者もおり、出版時から賛否両論だったことがわかりますね。『みだれ髪』の発表から間もなく、鉄幹は妻の林滝野と離婚し晶子と結婚しました。
歌人与謝野晶子の活躍とパリ留学
By 高村智恵子(明治19年-昭和13年) – http://livingworld.groups.vox.com/library/post/6a00fad6ac79ec00050110185ea149860f.html, パブリック・ドメイン, Link
鉄幹と結婚した晶子は歌人として本格的に活動を始めます。1904年、日露戦争の最中に『明星』に投稿した「君死にたまふことなかれ」は反戦的な内容だと批判されますが、晶子は一歩も引きませんでした。1911年、平塚らいてうらが『青鞜』を発刊する際、平塚は晶子に創刊号への寄稿を依頼。それに応じて晶子は「山の動く日来る」という文を寄稿します。このころ、夫の鉄幹は極度の不振にあえいでいたため、晶子は夫にパリ留学を勧めました。その後、晶子もパリへと渡ります。
「君死にたまふことなかれ」
1904年、晶子は鉄幹が主宰する『明星』に「君死にたまふことなかれ」という詩を投稿します。1904年といえば、日露戦争が始まった年ですね。
日露戦争は1894年の日清戦争とは比べ物にならないくらいの大戦争でした。そのため、全国各地から大勢の人々が中国大陸に渡ってロシア軍と戦うことになります。晶子の弟も日露戦争に従軍することになりました。晶子は弟を思って「君死にたまふことなかれ」を詠んだのです。
「あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生まれし君なれば、親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしえしや、人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや」という冒頭の一句は晶子の切実な情を詠ったものでしょう。
日露戦争という国運をかけた戦いに水を差すとして批判する人も多かった詩ですが、晶子は頑として自分の考えを貫きます。
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