日本の歴史明治

【明治時代】情熱の歌人、やは肌の晶子こと「与謝野晶子」を元予備校講師がわかりやすく解説

『青鞜』に寄せた「山の動く日来たる」

時代は明治から大正に移り変わります。1911年、平塚らいてうらは女性による女性のための文学雑誌の創刊を目指しました。良妻賢母こそが女性のあるべき姿だと考えらえてきた明治の終わりころ、平塚らは女性の自立を訴えようとします。

平塚らが総監を目指した雑誌が『青鞜』でした。『青鞜』の名の由来は、Bluestocking。18世紀のロンドンでブルーストッキングをはくことが教養が高い婦人たちの間で流行したからです。

平塚が『青鞜』の目玉として考えていたのが、すでに女流歌人として名声をもっていた与謝野晶子の詩を載せることでした。晶子は平塚らの依頼を受けるか迷いましたが、結局、『青鞜』に一文を寄稿します。

それが、「山の動く日来る」で有名な「そぞろごと」でした。「山の動く日来る、かく云えども人われを信ぜじ、(中略)、すべて眠りし女、今ぞ目覚めて動くなる」という冒頭文は、晶子の女性に対する気持ちを表しているように感じますね。

パリ留学

晶子が文人として名を挙げる一方、夫の鉄幹は極度のスランプに陥っていました。晶子の詩や北原白秋らの詩で好調だった『明星』は、北原らの離脱により勢いを失います。その結果、『明星』は100号を区切りとして廃刊となりました。

鉄幹はロマン主義から自然主義へと移り変わる文壇の動きについていけなかったのかもしれません。精神的に追い込まれる鉄幹に立ち直るきっかけを与えようと、晶子は資金を工面して鉄幹をヨーロッパに留学させました

1912年、晶子は森鴎外の助けを受け夫が留学しているパリへと向かいます。与謝野夫妻の留学は読売新聞が晶子の洋行を取り上げるなどしたため、世の中で大いに話題になりました。

帰国後の与謝野晶子

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パリから帰国後も、鉄幹はスランプを脱することができませんでした。晶子は鉄幹にかわり与謝野家の家計を支えなければなりませんでした。1918年から19年にかけて、晶子は平塚らいてうと母性保護論争を繰り広げるなど、女性の在り方について議論をおこないます。晶子は多忙な生活の中、古典の研究にも力を入れ『源氏物語』の現代語訳を3度も行いました。

苦しい生活

鉄幹が長いスランプに陥ると、与謝野家の収入は晶子の文筆活動によるものが中心となります。鉄幹・晶子夫妻は12人の子供に恵まれました。うち一人は生後二日で亡くなりますが、自分たちを含め13人分の生活費を賄うのはとても大変なことです。

『明星』が斜陽となり廃刊に追い込まれると、生活は晶子の収入頼みになりました。晶子は来る仕事の全てを全て引き受け、生活費を工面します。雑誌や新聞への寄稿だけでは賄えず、小説や論文、おとぎ話などを書いていました。時には歌集の原稿料を前払いしてもらっています。

しかも、11人もの子供をそだてなければならないのですから、晶子の苦労は並大抵ではなかったはずですよね。1919年、鉄幹が慶應義塾大学文学部の教授に就任することでようやっと収入面で楽になりました。

母性保護論争

鉄幹が大学教授の職を得る少し前の1918年、晶子は平塚らいてうと母性保護論争を繰り広げました。母性保護論争とは、働く女性と子育てについてどのようにあるべきか、女性の社会的地位の向上や女性が経済力をつけるにはどのようにすべきかなどについての論争です。

平塚は、国家が母性を保護し妊娠・出産・育児などで負担が大きい女性に対して国家があらゆる保護を展開するべきだと主張。一方、晶子は平塚の考えは形を変えた良妻賢母主義であり、女性の自立につながらないと反論します。国家による保護は「依頼主義」だと晶子は述べました。

自分自身、苦しい生活を乗り越え仕事と子育てを両立させていた晶子は、国であれ、男性であれ、何かに頼ることをする限り女性の自立はあり得ないと考えたのではないでしょうか。この議論に多くの女性、男性が参加し新聞紙上でも賛否が繰り広げられました。

『源氏物語』の全訳

晶子のライフワークの一つに『源氏物語』の全訳があります。平安時代に書かれた『源氏物語』について、江戸時代の文人北村季吟は『湖月抄』で源氏物語の全文掲載と注釈を行いました。

『湖月抄』は『源氏物語』の基本事項を網羅していたため、江戸時代を通じて最も流布した『源氏物語』の注釈書となります。しかし、晶子は『湖月抄』の内容について誤りが多いことに気づきました。

最初の『源氏物語』の全訳は『湖月抄』に依拠していたため誤りが多いと考えた晶子は一から全訳作業をやり直します。8割がた完成させたところで関東大震災に見舞われ、震災の被害を受けた晶子の原稿は火災に遭い焼失してしまいました。

そのため、晶子は3度目の全訳作業に取り組みます。結局、晶子が『新新訳源氏物語』を完成させたのは1938年のことでした。晶子は「紫式部は私の十一二歳の時からの恩師」と述べるなど『源氏物語』に強い思い入れを抱いています。完成した時も感慨ひとしおだったのではないでしょうか。

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