幕末日本の歴史江戸時代

日本に西洋医学を広めた「シーボルト」の生涯をわかりやすく解説

長崎市では各地で「シーボルト」と名の付く施設や学校、商品などを目にする機会があります。長崎と深いかかわりのある人物であるシーボルトですが、どんな人物だったのでしょうか。江戸末期の日本に最新の医学を伝えたドイツ人医師シーボルト。今回はそんなシーボルトにスポットをあてて、人物像や功績、ゆかりの地などを詳しくご紹介いたします。

シーボルトの生い立ち:名門家に生まれた超エリート医師

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シーボルトとは、江戸末期に長崎の出島(オランダ商館)で医師として働き、日本に最先端の西洋医学を伝えた人物。シーボルトは自ら医師として意欲的に活動するだけでなく、多くの弟子を育て、日本の医学に多大な影響を与えました。偉大な人物であることは言うまでもありませんが、なぜシーボルトは鎖国時代の日本にやってきたのでしょうか。まずは彼の生い立ちからたどってみることにします。

祖父も父も医師・ドイツ名門貴族の家柄

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは1796年2月、ドイツのヴュルツブルクという町で生まれます。
祖父も父も大学の医師という名門家であり貴族階級。一流の家柄でしたが、シーボルトが1歳のときに父・ヨハンが亡くなり、母とともに親戚の家に身を寄せることになります。

そんな悲しい経験を乗り越えながら、シーボルトは地元の大学の医学部に進学。医学だけでなく、植物学や民族文化、地理学など様々な学問を幅広く学びます。中でも特に植物学には強い関心を寄せいていたようです。

大学卒業後は、遠い異国の植物について学びたいという思いもあって、オランダの陸軍病院の軍医として働き始めます。

ご存じの通り、オランダは日本が唯一交易を行っていた西洋の国。シーボルトはオランダの命令で、医師として日本へ向かうこととなります。単に医師としてだけでなく、今後の交易をより良いものにするために日本の文化や風習などを広く調べるという使命も受けていました。

まだ行ったことのない国・東洋の国々で植物や自然学を学びたいと思っていたシーボルトにとっても、願ってもない話。こうしてシーボルトは一路、日本を目指すことになったのです。

27歳で日本へ!優秀な青年医師として長崎で活躍

シーボルトが日本に到着したのは1823年8月11日 (文政6年7月6日)。当時の日本は江戸末期、鎖国真っただ中。シーボルトを乗せた船は当然、長崎の出島に到着します。

当時の日本がやり取りしていた西洋人はオランダ人だけでしたので、ドイツ人であるシーボルトは「ちょっと訛りのあるオランダ人」と言ってごまかしたといったエピソードが残されているのだそうです。

シーボルトは「出島三学者」の一人とされていますが、他の二人(エンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルグ)も実はオランダ人ではありません。日本人には見分けがつかなかったのでしょう。

とにかく、シーボルトの出島ライフはスタートしました。

出島とは、長崎の湾内に築かれた人工島。面積はおよそ4,000坪ほど(東京ドーム三分の一ほどの広さ)で、ここにオランダ人の家や倉庫などが立ち並んでいました。当然のことながら、外国人たちは出島から自由に出ることはできません。

しかしシーボルトは出島から外に出ることを許されており、長崎の町へ出て市井の人々を診察し、多くの命を救ったのだそうです。

鳴滝塾を開設・植物採集や日本文化の研究に熱意

シーボルトは医療活動と並行して、周辺の植物採取や研究にも力を注いでしました。出島内に植物園を作ったとも伝わっています。

長崎に来た翌年、鳴滝(なるたき)という地域に自宅を構え、「鳴滝塾」という私塾を開設。彼のもとには、最先端の医学を学びたいと願う若者たちが日本各地から集まってきます。江戸時代後期の蘭学者・高野長英や伊東玄朴、小関三英などそうそうたる顔ぶれ。鳴滝塾で学んだ者たちは、医師や学者として活躍し、日本の医学界を背負って立つ存在となっていったのです。

鳴滝塾は、シーボルトが師となるだけでなく、シーボルトが日本のことを学ぶ場でもありました。シーボルトは生徒たちに、植物学など自分自身の研究を手伝ってもらい、彼らから日本の文化風習を学んでいたようです。

たかが地図されど地図……シーボルト事件の顛末とは

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江戸時代、鎖国状態が続く日本に来日し、長崎の町で医療活動や植物採取など精力的に活動をつづけたシーボルト。しかし彼のこの熱心な研究活動が、のちに日本を揺るがす大事件を引き起こしてしまいます。世にいう「シーボルト事件」とはどのような経緯で起きたのか、その後のシーボルトの様子もあわせて追いかけてみましょう。

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