幕末日本の歴史江戸時代

日本に西洋医学を広めた「シーボルト」の生涯をわかりやすく解説

異国船打払令とは?ますます厳しくなる鎖国政策

シーボルトが日本にやってきたのは1823年。日本はまだ、江戸幕府によって外国との交流が厳しく管理・制限されていた鎖国時代にありました。

外国とのやり取りとなる窓口は、長崎の出島をはじめとする数か所のみ。交易する国も、キリスト教との関わりが薄いオランダと中国のみという、閉ざされた時代でした。

しかし、1800年代に入ると、日本との交易を求め、フランスやイギリス、ロシアなどの船などが次々とやってくるようになります。

それまでも多少は、幕府の目を盗んで異国船との取引をする者もあったかもしれませんが、こうした外国の船の動きが、交易をきっちり取り締まりたい幕府の逆鱗に触れることに。そしてついに1825年、「異国船打払令」が出されます。

「異国船打払令」とは、オランダと中国以外の船は武力によって撃退しろ、というおふれです。

大型の船が次々と造られ、長い航海が当たり前になりつつある時代。そんな中でも、江戸幕府は異国の船に対してかたくなな姿勢を崩しません。

シーボルトが長崎で活躍していた頃、江戸幕府は異国船および異国に対する警戒心をますます強めていたのです。

地図を交換しないか?このやり取りが大事件に発展

1826年、シーボルトはオランダ商館長らの江戸参府に同行します。

当時はまだ、近くの藩との行き来も自由にできなかった時代。そんな時代にシーボルトは江戸へ出て、徳川将軍への謁見も果たします。

さらにシーボルトは、江戸に滞在していた学者たちとも交流。この中に、幕府の役人であり天文方(天体の動きや暦の研究を行う機関)であった高橋景保(たかはしかげやす)がいました。

シーボルトは高橋景保に、当時の最先端技術で書かれた世界地図などを送ります。高橋景保はこれに対し、あの伊能忠敬が中心となって描いた『大日本沿海輿地全図』の写しをシーボルトに渡したのだそうです。

共に日本の風土や自然、地形を探求する学者同士。ごく当たり前の交流に思われましたが、事はシーボルトが帰国する際に起きました。

国外追放・再渡航禁止となったシーボルト

江戸参府から戻ったシーボルトは、1827年、日本人女性である楠本瀧との間に娘を授かります。のちに、日本人初の女医となる楠本イネです。

そして1828年、およそ5年に渡る日本での活動を終え、シーボルトは帰国することになります。この時のシーボルトの荷物には、高橋景保から譲り受けたあの地図がありました。

地図は、その国の地形や風土を知る研究材料であるとともに、軍事的な情報にもつながります。海外への地図の持ち出しはご法度です。

このことにより、シーボルトはスパイの容疑をかけられ軟禁。シーボルトに地図を送った高橋景保をはじめ、この件に関わった十数人が捕縛されるという大事件に発展します。のちに高橋景保は獄中死。シーボルトは地図は単なる研究資料であると主張し、捕縛された者たちを救おうとしました。これによって何人かの友人を救うことはできたそうですが、1829年、シーボルト自身は国外追放と再渡航禁止処分に。日本を離れることとなったのです。

江戸後期の日本を揺るがせたシーボルト事件。鎖国政策そのものに変化はありませんでしたが、その後の日本の動向に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。

帰国後のシーボルト・日本学を西洋に伝える

1830年にオランダに戻ったシーボルトは、植物標本をはじめ、日本で収集した数万点にも及ぶ資料をもとに、日本の風土や文化を記した『日本動物誌』『日本植物誌』などの書物を次々に出版します。

オランダのライデンという都市に移住して日本に関するコレクションを展示する「日本博物館」を設けるなど、日本学の祖として名声を高めていきました。

1845年にはドイツ人女性と結婚。子供にも恵まれ、家庭を築きつつ、日本の開国を促す活動にもかかわり続けたのだそうです。

1854年、長い長い鎖国時代は終わりをつげ、日本はようやく開国。1858年にはオランダとの間に通商条約が結ばれ、シーボルトの追放令も解除されます。

1859年にオランダ貿易会社の顧問として再来日を果たしたシーボルト。1861年には諸外国との交渉のために幕府の顧問となっています。また、医師となっていた娘・楠本イネとも再会を果たしました。

このときも、日本の風土や民俗、自然を知るための様々な資料を数多く収集し、オランダへ持ち帰ったのだそうです。

その後もシーボルトは、1866年に病で死去するまで、日本と諸外国とのかけ橋となって活動をつづけました。

出島・鳴滝~長崎でシーボルトゆかりの地を訪ねる

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シーボルトにゆかりの地は東京にもたくさんありますが、その活動の源はやはり長崎。次に、長崎市街地に今も残るシーボルトゆかりの地をご紹介します。坂の町・長崎の美しい景観を背景に、日本の風土や自然に魅せられたシーボルトが歩んだ道を、ぜひたどってみてください。

豊かな縁に囲まれた邸宅跡とシーボルト記念館

JR長崎駅から車で15分ほど、路面電車なら最寄り駅まで20分ほど。閑静な住宅街の中に佇む赤レンガ造りのお洒落な建物があります。「シーボルト記念館」です。

オランダ・ライデンにあるシーボルトの邸宅を模したとされる西洋風の美しい建物の中には、彼の生涯を知る貴重な資料や品々が数多く展示されています。

展示の見ごたえや、建物の美しさもさることながら、目を引くのは周囲の緑の美しさ。坂の多い町に生い茂る木々の色が美しい景観を作り出しています。

厳しい鎖国時代にありながら、出島の外に邸宅を設けることを許されたシーボルト。この場所には、西洋の医学を学ぼうとする若者たちが数多く訪れたと伝わっています。

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