室町時代戦国時代日本の歴史

主の寵愛を一身に集めながらも恩を仇で返した「陶晴賢」どんな運命をたどったのか

戦国時代は、家臣が主を排除して取って代わる「下剋上」が珍しいことではありませんでした。まさに弱肉強食の世界だったのです。陶晴賢(すえはるかた)は、若い頃は主君の寵愛を一身に受けた武将ですが、主君が公家文化に傾倒し軍事を顧みなくなったことで、彼は忠誠よりも己の野心を選びました。下剋上を果たした晴賢は、その後どうなったのでしょうか。激動の短い生涯を生きた陶晴賢についてご紹介しましょう。

美貌に恵まれ、主の寵愛を受けるようになる

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陶晴賢は周防(すおう/山口県)の戦国武将・大内義隆(おおうちよしたか)の家臣です。長く大内氏に仕えた譜代の家系で、信頼のあつい重臣でした。少年時代の晴賢は美貌に恵まれ、主・義隆の小姓として手厚い寵愛を受けます。そしてそのまま重臣となり、大内氏の中でも重きを成していくのでした。

美少年として有名になる

大永元(1521)年、陶晴賢は、大内氏の重臣・陶興房(すえおきふさ)の二男として生まれました。

晴賢の父・興房もまた、激動の人生を生きた人物です。父(晴賢の祖父)が暗殺されてしまったり、長兄と次兄(晴賢の叔父)が骨肉の争いを演じたりするなど、戦国の厳しさを嫌というほど見てきたため、思慮深い性格だったそうですよ。そして、大内氏は家督継承の際にお決まりと言っていいほどお家騒動が持ち上がっていたのですが、それを起こすことなく、大内義隆の代へとバトンタッチさせ、敏腕ぶりを発揮した有能な武将でした。

そんな父のもとに生まれた晴賢は、美貌の少年として評判となり、大内義隆から小姓として召し出されることとなったのです。

戦国時代の「衆道」

大内義隆は中国地方を中心に一大勢力を誇った戦国武将で、中国地方から九州を狙おうと意欲を見せていたところでした。

そんな義隆、女性も好きですが「美少年が大好き」ということでも有名でした。後に、フランシスコ・ザビエルに批判されて義隆が激怒したというエピソードもありましたが、こういうことは戦国時代には何らおかしなことではなかったのです。

小姓を寵愛するのは「衆道(しゅどう)」と呼ばれ、女性を伴うことのできない戦場では、小姓がその代わりになることもありました。また、戦場だけではなく、主に気に入られた小姓は常にそばに控え、主が本心をさらけだすことのできる心のよりどころとなったのです。

義隆から受けた寵愛の深さがすごい

眉目秀麗な少年だった晴賢は、義隆の小姓となるとすぐに寵愛を一身に受けるようになりました。

義隆の寵愛がどれほど深かったかを物語るエピソードがあります。

義隆は、晴賢恋しさに5時間も馬を飛ばして会いに行っていたそうです。すると、晴賢が先に寝入ってしまったので、起こすのは可哀想だと義隆は考え、和歌をしたためると枕元にそっと置いて帰っていったということでした。

そこまで深く愛された晴賢は、成長すると重臣として義隆に忠実に仕えていくこととなります。

大内氏の武将として武断派の筆頭となる

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元服し家督を継いだ晴賢は、大内氏の武将の中でも筆頭格の存在となっていきます。数々の戦いに参加し、周辺勢力と火花を散らしました。ところが、ひとつの合戦の敗北により、主の義隆との関係が微妙なものとなっていきます。いったい何があったのでしょうか?

家督を継ぎ、主君から信頼を寄せられる

本来ならば、晴賢には兄がいたため、家督を継ぐことはないはずでした。しかし、この兄がかなり早くに亡くなってしまったので、父の死後に晴賢のところに家督が回ってきたのです。

家督を継いで陶氏の当主となった晴賢は、引き続き大内義隆に仕えました。もう小姓ではないので、昔のような付き合いをすることはありませんでしたが、家臣として忠実に義隆に尽くすようになっていきます。また、義隆も晴賢を信頼して何かと重く用い、晴賢は大内氏の中でも重臣として存在感を示すようになりました。

当時、大内氏の傘下に毛利元就がいたのですが、彼の守る吉田郡山城(よしだこおりやまじょう/広島県安芸高田市)に出雲(島根県)の尼子晴久(あまごはるひさ)が攻め込み、第一次吉田郡山城の戦いが起こりました。傘下の武将を救援するためとして、義隆は1万の援軍を派遣しましたが、その総大将に任ぜられたのは晴賢でした。そして彼は尼子軍を撃退し、義隆を大いに喜ばせたのです。

思わぬ大敗で大内氏の進撃が止まる

尼子氏を撃退した義隆は、一気呵成にこのまま攻め込もうと出雲遠征を決断しました。晴賢など戦場で戦ういわゆる「武断派(ぶだんは)」と呼ばれる武将たちはこぞってそれに賛成しましたが、一方で官僚的な仕事をする「文治派(ぶんちは)」は反対しました。

しかし、文治派の反対を義隆は押し切り、天文11(1545)年、第一次月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いとなります。勢い盛んな義隆は、尼子氏の3倍もの軍勢をもって戦に臨みましたが、結果は思わぬ大敗。ここで義隆の嫡子・晴持(はるもち)が命を落としてしまい、義隆は悲嘆に暮れることとなりました。

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