幕末日本の歴史江戸時代

日本社会を大きく変えた「日米修好通商条約」背景や内容などわかりやすく解説

伊豆半島の先端近くにある下田市。江戸幕府とペリーが結んだ日米和親条約で北海道の函館とともに開港された街です。条約に基づき、下田に駐在したアメリカ総領事がハリスでした。ハリスはアロー戦争などを利用し、貿易を渋る江戸幕府に対し通商条約締結を迫ります。今回は日本社会を大きく変化させた日米修好通商条約についてわかりやすく解説します。

日米修好通商条約の背景

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1853年のペリー来航と翌年の日米和親条約の締結により、日本は200年以上の長きにわたった鎖国をやめました。1856年に下田に赴任したアメリカ総領事のハリスは、日本に通商条約締結を迫ります。このころ、日本を含む東アジアは欧米列強の進出により混沌としていました。日米修好通商条約締結の背景にせまります。

欧米列強のアジア進出

19世紀後半、欧米列強は世界各地に進出し植民地獲得競争を繰り広げます。欧米列強はアフリカやアジアに軍隊や艦隊を派遣し、次々と植民地化していきました。

イギリスは17世紀から200年以上にわたってインドで権利を拡大。1857年におきたインド大反乱を鎮圧し、インドを直接支配するようになりました。1840年、イギリスは清国とアヘン戦争に突入します。

清国によるアヘンの取り締まりがきっかけでしたが、イギリスは圧倒的な軍事力で清国軍に勝利。香港を割譲させるなど、イギリスに有利な南京条約を結ぶことに成功しました。

また、フランスはベトナム・ラオス・カンボジアに進出。もともと、インドネシアを支配していたオランダの勢力とあわせ、中国から東南アジア・インドにかけて、欧米列強の植民地が広がっていきました。

ペリー来航と日米和親条約

ペリー来航以前から、日本近海に欧米の艦船が出没していました。特に、日本に急接近してきたのがロシアとアメリカです。ロシアは18世紀末から北海道の根室や長崎に来航し、日本に開国・通商を要求しました。

アメリカ船が日本近海に現れるのは19世紀前半からです。1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーは艦隊をひきいて浦賀に来航。フィルモア大統領の国書を提出し、開国を求めました。

幕府は翌年の回答を約束したため、ペリーは一時退去します。1854年、ペリーは再び浦賀に来航。開国拒否は困難と考えた幕府は日米和親条約を締結しました。ほぼ同じ内容で、オランダ・ロシア・イギリスとも条約を結びます。これにより、日本の鎖国は終わりを告げました。

幕府とハリスのせめぎあい。日米修好通商条約締結の経緯とは

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日米和親条約にしたがって下田に乗り込んだアメリカ総領事のハリス。彼は就任当初から通商条約締結を狙っていました。おりしも、中国でアロー戦争が勃発。イギリスとフランスが清国を攻撃したとのニュースがハリスのもとに届きます。ハリスは幕府にイギリスやフランスの脅威を説き、通商条約締結にこぎつけました。

米国総領事ハリスの下田着任と交渉開始

1855年、ハリスはピアース大統領から初代駐日領事に任命されます。ハリスは日本との通商条約締結に関して全権を委ねられました。1856年、下田に到着したハリスは玉泉寺に総領事館を置き、日本側と交渉を開始します。

ハリスは大統領から預かった国書を将軍に提出したいとして江戸に行くことを要求しますが、徳川斉昭ら攘夷論者が激しく反発。なかなか、江戸に行くことはできません。

1857年にアメリカの砲艦が下田に入港すると軍事的圧力を恐れた幕府は、ようやくハリスの江戸行きを承認します。ハリスは江戸で13代将軍徳川家定に国書を提出すると、幕府に通商条約締結を強く迫りました。ハリスの強硬な姿勢に押される形で幕府は1858年から本格的な通商条約締結交渉を開始します。

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