明治六年の政変
西郷隆盛・板垣退助・江藤新平ら征韓論支持派の参議たちと帰国した岩倉具視・大久保利通ら国内優先派は征韓論をめぐって激しく対立します。使節団に参加して外国を歴訪した岩倉や大久保は今の日本の国力の弱さを痛感。少しでも国力をつけるため内省を優先するべきだと考えていました。
岩倉・大久保らは一度は使節派遣で決定した政府方針を覆し、派遣延期を決定します。これに怒ったのが征韓派の参議たちです。西郷ら征韓派参議は一斉に辞表を提出。政府を去って下野しました。
この一連の政争を明治六年の政変と呼びます。政変後、参議兼内務卿となった大久保利通を中心とした大久保政権が成立。下野した参議たちの下には新政府の方針に不満を持つ武士たちが結集。西南戦争など士族反乱の原因ともなりました。
岩倉使節団は文明開化を大きく加速させた
岩倉使節団の評価は当時も現在も大きく分かれます。政府首脳がこぞって海外に外遊したことで欧米の制度・文物を知ることができ、指揮権を広めた一方で国内政治が停滞し明治六年の政変や士族反乱の原因となったとも評され、功罪相半ばすといえるでしょう。とはいえ、この時の経験は日本の近代化に大きく貢献し、近代化を加速させました。岩倉使節団は日本が欧米列強に追いつくために必要なものだったのではないでしょうか。