ドイツ

今こそ知りたい「ベルリンの壁」の歴史~建設から崩壊まで詳しく解説!

資本主義 vs 共産主義・東西の格差

ベルリンの壁が築かれた1961年以降も、わずかではありますが、西側への逃亡を命がけで決行する市民はいたようです。1961年から1988年までの間の西ドイツへの逃亡人数は23万人を超えるといわれています。

壁建設前の1945年から1961年までの東側への流出はおよそ270万人といわれていますので、10分の1以下であると見ることもできますが、厳戒態勢の中での23万人はかなりの大人数と見てよいでしょう。捕らえられたり命を落とした人も少なくなかったようです。

このこともあり、東ドイツはますます警戒を強めていきました。ベルリンの壁がどんどん強固になり、高さを増したのも、こういう背景があったからなのです。西側への人口流出は何としても食い止めなければなりません。

東ドイツ軍が警戒を強める中、それでも西側への逃亡者は後を絶たちませんでした。その理由はひとえに「東西の格差」にあったと考えられています。

当時の西ドイツは、ヨーロッパ各国の戦後復興の波に乗り、経済大国へと成長を遂げていました。壁の向こう側には仕事も物資も豊富にあります。豊かな暮らしを求めて壁を越えようとする人々と、それを阻止しようと暗躍する軍隊。暗い時代は壁建設からおよそ28年間続きました。

共産主義体制の衰弱と自由化を求める声

そんな東西冷戦時代にも、1980年代に入ると徐々に変化がみられるようになりました。共産主義体制が徐々に衰弱し、ソ連が少しずつ力を失い始めます。

1985年、ソ連の共産党書記長に就任したゴルバチョフは、社会主義体制を立て直すべく「ペレストロイカ」と呼ばれる政策を推進。ポーランドやハンガリーといった東ヨーロッパ諸国でも少しずつ、民主化の動きが活発になっていきます。

このような動きは、東ドイツの体制にも影響を及ぼしました。当初は、変わらず社会主義体制を貫こうとしていた東ドイツでしたが、自国の改革に忙しいソ連の後ろ盾を失い、次第に勢いを失っていきます。国内で起きた改革派の勢いを抑えることができず、あちこちで民主化・自由化を叫ぶデモが激化していきました。

1961年8月13日未明に、突然築かれたベルリンの壁。崩壊の日も、何の前触れもなく突然訪れたのです。

ベルリンの壁の歴史(三)壁の崩壊・そして現代へ

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1989年というと、日本では昭和から平成へ和暦が変わるという歴史的な出来事があった年です。そんな年に、ベルリンでも歴史的な出来事が起きていました。長年ベルリンの人々を分断し、東西冷戦の象徴となっていたベルリンの壁の崩壊です。あの壁はどうなったのか、崩壊から現在までの歴史を振り返ってみましょう。

勘違い?ベルリンの壁崩壊までのドタバタ劇

東ドイツの国民が西ドイツや近隣の東欧諸国に流出していく事態に、東ドイツ政府は苦悩していました。危機感を覚えた政府は、その対策として「国外への移住に関する規制緩和」を打ち出します。

内容としては「国外への旅行を無条件で(出国の理由など細かく申告しなくても)認める」「出国ビザを遅滞なく発行する」といった個人の外国旅行に関するものでした。政府としては、少しずつ緩やかに規制を緩和し、混乱を鎮めることが目的だったのでしょう。あるいは時間を稼ぎたかっただけなのかもしれません。どちらにせよこの草案は近々閣議にかけられる予定でした。

しかし、東ドイツ政府の広報担当者として記者会見の場に立ったギュンター・シャボフスキーは、まだ閣議決定していないこの草案を会見で発表してしまうのです。しかも「出国ビザを滞りなく発行する」という箇所を「出国規制を緩和する」と勘違い。彼は事前の会議には出席しておらず、政令の内容をよく理解していなかったのだそうです。1989年11月9日の夕方のことでした。

壁の崩壊と新しい時代の幕開け

一人のスポークスマンのフライング発言によって、東ドイツは大混乱に陥ります。

11月9日のうちに「東ドイツ政府が、制限なく壁を通行できると発表した」というニュースが世界を駆け巡りました。

驚いたのはベルリンの人々です。壁の検問所で警備にあたっていた国境警備隊にも正確な情報は伝わっておらず、現場は大混乱。はじめは半信半疑だったベルリンの市民たちでしたが、徐々に壁の周囲に集まり始め、日付が変わるころには東側だけでなく西側にもたくさんの人が押し寄せ大騒ぎとなります。

1989年11月10日未明、中にはハンマーやつるはしなどを持っている人の姿もありました。冷戦の象徴として長年自分たちを苦しめてきた忌まわしき壁を、自分たちの手で壊そうとする人々。さらに重機も持ち込まれ、155㎞のうちのほんの一部ではありますが、壁は物理的に破壊されていったのです。

1961年8月13日から始まったベルリンの壁の建設は、28年の時を経て崩壊の時を迎えました。

負の遺産を観光資源に~ベルリンの壁は今

ベルリンの壁の崩壊は、ベルリン市内の境界線だけでなく、東西ドイツの国境も解き放つことになりました。同時に、社会主義体制を取り続けてきた東ドイツにも終焉の時が訪れます。ベルリンの壁崩壊の翌年の1990年10月3日、東西ドイツの統一が実現。経済的な格差など多くの課題を持ちつつも、ドイツの人々は新しい一歩を踏み出しました。

ベルリンの壁の崩壊後、半年ほど経過してから、実際に壁の撤去作業が開始されます。かつての「東西冷戦の象徴」は「東西統一の象徴」へ。壁の9割以上は壊され撤去されましたが、一部分は残され、観光の名所となっています。

中でも、市街地を流れるシュプレー川沿いに残るベルリンの壁を利用した壁画ギャラリー「イーストサイド・ギャラリー」はベルリン屈指の観光スポットに。20か国以上118名ものアーティストが参加し描いた壁画は長さおよそ1.3㎞。川沿いの歩道を歩きながら、平和へのメッセージが込められた様々なアート作品を鑑賞することができます。

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