4-1. 夫差の痛恨のミス:伍子胥を殺してしまう
勾践を倒して意気軒昂の夫差は、越などもはや眼中にはなく、北方への進出を目論み始めました。
しかし、側近・伍子胥は夫差を諌めます。勾践はまだ健在ですし、何が起きるか分からないからまずは越を警戒すべきだと。ところが、覇権への野望を押さえきれない夫差に、伍子胥の言葉は届きませんでした。こうして、2人の仲には徐々に亀裂が入っていくのです。
しかも、勾践から賄賂を受け取っていた宰相は伍子胥を嫌い、夫差に対してあることないことを吹き込んだのでした。そして夫差はそれを信じ、ついには伍子胥に死を賜るという暴挙に出てしまったのです。
4-2. 伍子胥の最期と不吉な予言
元々、夫差は父・闔閭から後継者にとは考えられていませんでした。情が薄く、主の器ではないというのがその理由でした。しかし、夫差が伍子胥に頼み込んで推薦してもらい、後継者になれたといういきさつがあったのです。
そんな恩人である伍子胥を、いともたやすく夫差は斬り捨てたのでした。
伍子胥は夫差の非情な命令を受け入れましたが、最後にこう言い残します。
「私の墓の上に梓の木を植えるがいい。それが夫差の棺となる。そして、私の目をくりぬいて城門に置いてくれ。さすれば、越が呉を滅ぼすのをこの目で見ることができよう」と。
そして、彼は自分で自分の首を刎ねたのでした。
薪の上で寝て復讐心を忘れない意志の強さはあった夫差でしたが、父・闔閭の見立て通り、情に薄かったのです。やがて、これが彼の命取りとなります。
4-3. 夫差、勾践に敗れて死を選ぶ
諸侯に覇を唱えるべく野望に燃えた夫差は、諸侯を一堂に集め、その盟主になろうと画策します。それが実現しようとしたまさにその時、勾践が呉に攻め込んだのでした。
夫差は慌てて呉の本国に戻りますが、これ以降、呉は弱体化の一途を辿ります。そして勾践の攻勢に耐え切れず、ついに滅亡の時を迎えてしまいました。
夫差の家臣のひとりが、「いちど我が王があなたの命を助けているのだから、あなたも我が王の命を助けてほしい」と命乞いを申し込みます。
これに対して勾践は心を揺り動かされますが、参謀の范蠡が「会稽の恥をお忘れになったのか!?」とストップをかけたのです。
そこで、勾践は夫差を遠い離れ小島に流刑に処すことに決めました。
それを聞いた夫差は、「自分はもう年老いて、あなたに仕えることもできない」と言い、「伍子胥に合す顔がない」と言って顔を布で覆い、自ら首を刎ねて最期を遂げたのでした。
4-4. 臥薪嘗胆したはずの両者が共に衰える
勾践には范蠡、夫差には伍子胥という側近がいました。
伍子胥を切って捨てた夫差は、ほどなくして自らの身を滅ぼすこととなりましたが、一方、勾践と范蠡の関係はその後どうなったのかというと、2人もまた別れることになりました。
呉を滅ぼして強大な力を得た勾践は、やがて驕慢な君主へと豹変していきます。そばに仕えた忠臣を自殺させるなど、かつての夫差と同じになっていった彼のもとを、范蠡はいち早く去っていきました。そして越もまた多くの人材を失い、衰退していくのです。
4-5. かつての日本でも臥薪嘗胆が唱えられた
ところで、明治時代の日本でも、にわかに臥薪嘗胆がスローガンとなった時期がありました。
日清戦争後、日本と清との間で結ばれた下関条約において、清は遼東半島などを日本に割譲するものと定められていたのですが、これにロシア・フランス・ドイツの三国が横槍を入れてきたのです。遼東半島にはロシアが喉から手が出るほど欲していた不凍港があり、ドイツとフランスはロシアの目をそちらに向けさせることで自国の安全を守ろうという意図があったわけですね。
三国に連合されては、日本もどうすることもできず、三国干渉に屈することとなりました。
しかも、この後ロシアは清と結んで遼東半島の重要拠点をそっくり自国のものとしてしまったため、日本からすれば実に面白くない事態になったのです。
このため、日本政府は「臥薪嘗胆」をスローガンに掲げ、国民の反発をロシアに向けさせたのでした。
臥薪嘗胆はそれぞれのためになったのか?
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臥薪嘗胆の由来となった故事をご紹介しましたが、闔閭・夫差父子と勾践の強烈な復讐心がとても印象に残りましたね。悔しさをバネに、夫差と勾践は互いを蹴落とそうと奮闘しました。しかし、復讐が生み出す成功は長くは続かないという事実も露呈しています。臥薪嘗胆の故事からは、私たちは不屈の意志の強さといういい部分だけを見習いたいなと感じさせられました。