日本の歴史昭和

戦後日本の経済に大きな爪痕を残した「オイルショック」とは?わかりやすく解説

列島改造論による不動産価格の高騰と石油価格上昇のダブルパンチ

また、日本における狂乱物価を引き起こした原因は、もう一つありました。それは、1972年に首相になった田中角栄氏が持論である「列島改造論」によって地方産業のインフラ整備に着手したために、不動産価格が高騰していたことです。企業は、地方に生産設備を移そうとしましたが、土地価格の上昇によって生産設備の設置には大きなお金がかかったため、製品価格に値上げしました。そのために、物価が押し上げられていたところに、さらにオイルショックが重なったために、物価は狂乱物価となり、上昇してしまったのです。

オイルショックによって何が変わった?

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オイルショックには、1973年の第1次と1979年の第2次がありますが、インパクトは第1次のほうが圧倒的にその影響は大きかったと言えます。それは、第1次オイルショックの後に、石油を輸入する先進諸国は、石油依存度の高い産業構造からの脱皮を目指して行動したからです。産業構造の3次産業への移行や石油消費の少ない生産方式に切り替えるとともに、石油備蓄体制を整備していました

石油依存は、地球環境面で温暖化に対して大きな影響を与えており、オイルショックによって石油依存度の上昇には一定の歯止めがかけられたのです。しかしそれでも、温暖化を止めるまでには至っていません。それは、リーマンショック前後の原油価格の再上昇にも現れています。

石油価格の暴騰によるオイルマネーの発生

また、石油価格の上昇によって生じたオイルマネーも世界の為替、金融市場を撹乱しており、また、テロリストたちの資金源にもなったことがありました。

オイルマネーによる国際為替の波乱要因は貿易立国の日本を苦しめる

オイルショック前には、アメリカがドルの金兌換を停止し、国際為替市場は変動相場制に移行していました。当時、一気に大きく円高になったことから、技術を売り物にする輸出産業が大きな打撃を受け、経済成長率を下げる要因になっていたのです。

しかも、オイルショックによって石油価格は10倍以上にもなり、産油国には大量のオイルマネーが転がり込むようになりました。その資金は、金の購入や金融市場に向けられるとともに、国際為替市場にも大量に流れ込み、為替変動を大きく揺さぶることになったのです。本来、金利が上昇すれば、その国の通貨が買われるため、高くなります。しかし、それとは関係なく、投資家の思惑によって大量の資金が流れ込み、反対方向に動いたりして、為替市場は不安定になったのです。そのため、輸出産業は生産の舵取りが非常に難しくなりました。

その後も、石油価格は時期によって、オイルショック前の50倍以上まで上昇したこともあり、オイルマネーは積み上げられていったのです。

ガソリン価格の上昇は日本の車の対米輸出増につながった

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しかし、石油価格の上昇は、プラスに働いた面もあったのです。それまで、アメリカの車社会は、ビッグスリーと言われたGM、フォード、クライスラーの排気量の大きい大型車が主流でした。ガソリン価格は極めて低かったために、燃費は問題にならなかったのです。

しかし、オイルショックによってガソリン価格が大幅に上昇しますと、車社会と言われるアメリカ社会でも、燃費が問題になりました。日本などが輸出する小型車の燃費の良さが注目されたのです。もともと日本車は、故障の少なさを全面に出していましたが、燃費が意識されることによって、日本車の輸出は急激に伸びました。そのために、1980年前後には、日米貿易摩擦となったほどです。アメリカのビッグスリーの営業成績は大きく落ち込み、クライスラーは現在では、ダイムラーベンツの傘下になっています。

ニクソンショックとオイルマネーによる国際為替市場へのオイルダラーの流入

オイルショックによって、石油の国際的な価格は急上昇しました。その背景には、その前にニクソンショックと言われるアメリカドルの金兌換停止が1971年に行われ、1973年には為替相場の変動相場制に移行したことがあったのです。ドルがそれまで1ドル360円で固定されていたものが、200円台にまで上昇しました。日本における石油の輸入価格が下がっていたこともあり、より石油への依存度が高まっていたのです。

そのため、石油に依存していた日本の産業は原料価格が一気に上昇し、狂乱物価を引き起こしてしまいました。

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