安土桃山時代日本の歴史

「本能寺の変」どうして起きた?諸説と真の理由に触れていく

明智光秀の家康暗殺阻止説について

信長が家康を暗殺するために本能寺に家康を招き、家康を襲撃させる命を受けた光秀が次は我が身といった不安の元、謀反に踏み切り信長を討ったという説です。しかしこの説では、信長による天下統一も目前にした上で家康を討つ動機が見当たりません。またこの説でもそうなった場合の信長の遺体確認は必須でしょう。何故ならば、この説に基づいた場合、今度は家康が覇者となるからであり、信長が完全に討たれたことの確証を必要とするからです。

本能寺の変後の信長生存説について

信長の遺体が見つからない理由として信長生存の可能性を根拠に挙げていますが、この説は非常に無理があります。光秀による1万3千の兵による包囲は前提の中に含まれているため、包囲されてから、地下の抜け道などが予め設定されている前提で、信長が逃げ切ったため、遺体が見つからなかったという説です。しかし信長が仮に負傷していた場合には、秀吉などの信長の重臣が、信長代行をして天下布武を推し進めることになりますし、負傷していなかった場合には間違いなく、信長の復活は必至となるでしょう。

明智光秀の黒幕が豊臣秀吉である説について

この説では秀吉が黒幕となって光秀をそそのかしたことにより光秀が襲撃したとされています。秀吉が本能寺の変の知らせを受けて毛利と即座に和睦、備中高松城からわずか数日で京都に戻って光秀を討ったとされる「中国大返し」があまりにも不自然であるためです。本能寺の変を事前に知らないとできないことをその根拠にしています。またこの説では光秀本人による犯行か、光秀を介しての秀吉の犯行かの違いであり、遺体の確証を得ないまま事を運んだとするには不自然さを拭えません。

光秀の黒幕がイエズス会である説について

この説では明智光秀の黒幕としてイエズス会が暗躍していたとする説です。イエズス会はスペイン設立のカトリック修道会であり、そこからフランシスコ・ザビエルが1549年に布教のため来日しました。信長は当初、キリスト教の布教を認め、南蛮貿易によっていろいろと利益を受けながらも、安土城築城の際には、信長自らが神であることを公言するようになったことが、イエズス会の脅威となったということです。城内に総見寺が建立され、その境内の一番高いところに「盆山」と称された一個の石が安置され、信長の誕生日を神聖な日として、この日には「盆山」を神である信長の代わりに拝むように命じられました。

イエズス会にとって、キリスト教の布教対象の国において、今まで協力体制をとっていた相手が、自分自身が神であるとする思想を持ってしまったことは、あってはならないものであり信長を粛清の対象として、イエズス会の宣教師たちが明智光秀をそそのかして謀反を起こさせたというものです。しかし遺体の確証を得ないままでは、信長が問題なく処分されたことがわからないため、非常に不自然な説となります。

光秀の黒幕が天皇・朝廷である説について

信長が安土城築城に伴い、自分の誕生日を神聖な日と定め、「盆山」と称された石を神である自分の代わりとして、誕生日に拝ませたことは、いずれは天皇を凌駕する存在になり得るとして、光秀に勅命を出して信長を討たせたという説です。しかし信長が破天荒な武将として描かれたのは明治以降になってからであり、江戸時代までは天皇を大切にする武将として認識されていたとも言われています。また仮に天皇や朝廷が脅威を抱いているのであれば、やはり信長の遺体の確認は絶対的なものだったでしょう。遺体がわからないままで終わるというのでは、相手が勅命を発した天皇であるならばありえないわけです。

本能寺の真相はこれだ!

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いろいろな諸説が出てきていますが、そのほとんどが軍記物や、史実からは確証を得られない中でのこじつけが多く、一番大切な「遺体が確認できない」その理由を明らかにできないものばかりです。本能寺の真相を知るにはまず「何故遺体が確認できないか」を解明できなければなりません。遺体が確認できないケースとしては、「本能寺から脱出」「遺体を何者かが回収した」「遺体が残らないほどの事態が発生していた」の3つのどれかになります。しかし脱出や回収であるならば必ず後世において明らかになってくるはずです。しかし400年以上経った現代でも謎に包まれているということであれば、間違いなく遺体が残らないほどの事態が発生していたといえます。

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