草原を統一しチンギス・ハンに即位
1205年、テムジンは草原で最後まで敵対してきた西方のない満足と北方のメルキト族を撃破。宿敵となったジャムカを捕らえることに成功します。
かつての盟友ジャムカを惜しんだテムジンは助命を提案しますがジャムカは拒否。ジャムカは革袋に包んで馬の大軍に踏みつぶされるという処刑法で殺されます。これは、大地に血を流さない貴族のための処刑法でジャムカの名誉を考えてのことでした。
1206年、テムジンは諸部族の指導者を集めてクリルタイという部族会議を開催。その地で、諸部族を統治する大ハーンの位につきます。ハン、カン、ハーン、カーンはいずれも王を意味する言葉。チンギスの名の由来は定かではありません。こうしてモンゴル諸部族を統一したチンギスは強大な武力を手にし、世界各地を征服していくのです。
モンゴル帝国の拡大
モンゴル高原を統一し強大な武力を得たチンギス・ハンは周辺諸国の征服に乗り出します。モンゴルの遊牧民を操り、常に争わせてきた中国北部の金王朝、西夏や西遼などの中央アジア諸国、そして西のイスラム教の大国であるホラズムと戦って領土を拡大させていきました。
国内制度の整備と軍事力の強化
チンギス=ハンは「ヤサ」とよばれる法令を定め、法律によって広大な国土を支配し軍隊の規律を維持しました。新たに制定したというよりはチンギス・ハン以前からあるモンゴルの慣習法やチンギス・ハンの発言などがまとめられたものだといわれます。特に軍律は厳しく、違反者は厳重に処罰されました。
また、千戸制という軍事制度も整えられました。以前は氏族ごとに部隊が編成されていましたが、遊牧民を十戸・百戸・千戸ごとに編成。それぞれに長を置きます。遠征時にはそれぞれの戸から兵士を出し、戦争がないときは行政の単位ともしました。千戸の長は戦時には将軍となるように定められます。
また、戦時には一人の乗り手に対して馬を三~四頭あてがい、乗り換えつつ移動できるようにしました。これにより、チンギス・ハンの軍は通常では考えられないようなスピードを獲得したのです。
西夏・金への遠征
クリルタイを開いていたころ、チンギス・ハンは最初の征服戦争である西夏攻略戦を行っていました。西夏は堅固な都市で守りを固めたため、モンゴル軍は攻略に苦戦します。1209年、これ以上の攻撃を断念し西夏がモンゴルに服従することを条件に講和しました。
側面を突かれる恐れがなくなったモンゴル軍は大国、金王朝との戦いに挑みます。1211年に始まった戦いは終始モンゴル軍の優位に進みました。モンゴル軍は万里の長城をはるかに超える地まで侵入し、たびたび金軍を打ち破ります。
散々に国土を荒らされた金は1214年にモンゴル帝国と和平を結びました。金はモンゴルの脅威から逃れるため、黄河の南の開封に遷都。モンゴル帝国はこのことを「背信行為だ!」ととがめて再び戦いが始まります。金王朝はチンギス=ハンの時代には持ちこたえますが、次のオゴタイ・ハンの時代に滅ぼされてしまいました。
ホラズム遠征
モンゴル人は遊牧だけではなく交易にも熱心でした。1218年、チンギス・ハンは西方の大国ホラズムに使者を派遣します。ところが、国境の街オトラルで街のホラズム側の知事がチンギス・ハンの使節を皆殺しにして財宝を奪うという事件が勃発。これに怒ったチンギス=ハンは大軍を率いてホラズムに攻め込みました。
チンギスに率いられたモンゴル軍は15万とも20万とも伝えられます。モンゴル軍は3つに分かれてホラズムに進撃。モンゴル軍は特徴である機動力を生かしてホラズム軍を各個撃破していきました。チンギス・ハンは戦わずに降伏した都市は許しましたが逆らった都市は見せしめとして徹底的に破壊します。中心都市サマルカンドも灰燼に帰しました。
逃げ場を失ったホラズム王はカスピ海の孤島で病死。最後まで抵抗した王子ジェラール・ウッディーンはインダス川のほとりで敗れインドに逃げ去ります。ここに、大国ホラズムは短期間で壊滅状態になりました。
チンギス=ハンの死
以前、チンギス・ハンに攻められ服従を誓った西夏はホラズム遠征への従軍を拒否していました。そればかりか、金王朝と手を組みモンゴル帝国に反抗しようとします。これを知ったチンギス=ハンは西夏遠征を決意しました。
1226年、モンゴル軍は怒涛の如く西夏に進軍。あっという間に首都興慶に迫りました。西夏軍は30万の大軍を編成しモンゴル軍を迎え撃ちましたが、あえなく敗北。西夏は壊滅状態となりました。
翌年、チンギス・ハンは陣中で危篤状態に陥ります。モンゴル軍は戦いを切り上げてモンゴル高原へと帰還しますがその途中でチンギス=ハンがこの世を去りました。
チンギス・ハンの遺体はモンゴルへと運ばれますが、その途中で遭遇したすべてのものは殺されたといいます。チンギス・ハンの墓の正確な位置は今も特定されていません。2015年、チンギス=ハンの墳墓があるとされるブルカン山周辺は世界遺産とされました。