三国時代・三国志中国の歴史

「四面楚歌」の由来って?中国史の英雄たちの栄枯盛衰のストーリー

愛妾・虞美人や側近との別れの宴

四面楚歌の状況となり、孤立した項羽は「もう逃げられない」と覚悟を決め、別れの酒宴を催しました。

彼のかたわらには、愛妾・虞美人(ぐびじん)や苦楽を共にしてきた愛馬・騅(すい)も控えており、ここまで彼についてきた家臣たちも顔を並べていました。

そして項羽は、「垓下の歌」という詩を披露したのです。

 

力は山を抜き 気は世を覆う

(私の力は山を引き抜くほどで、気概は世を覆い尽くすほどだった)

 

時利あらず 騅ゆかず

(しかし今は時運を失い、騅も進もうとはしない)

 

騅のゆかざるを いかにすべき

(騅が走らないのをどうしたらいいのか…どうしようもない)

 

虞や虞や 汝をいかにせん

(虞よ、虞よ、お前の身もどうしたらいいのか…)

 

虞美人がこれを唱和すると、項羽の悲憤慷慨が刻み込まれたこの詩を聞いた家臣たちは、涙しました。

しかし、もうどうにもならなかったのです。この詩は、項羽の辞世の歌であり、家臣たちとの決別の歌だったのですね。

四面楚歌からの挽回を諦める

宴を終えた項羽は、夜深けに800の兵を率いて包囲を突破しました。

しかしそれに気づいた劉邦の軍に追撃され、追いつかれてしまいます。そして、ついてくる兵はわずか28騎にまで減っていたそうです。

この時、項羽は「私が滅びるのは、私が弱いからではない。天が私を滅ぼそうとするからだ」と言い、敵軍に斬り込み最後の奮戦を見せます。

やがて辿り着いた長江のほとりでは、渡し守に「ここは逃げて、力を蓄えて再起をはかるべし」と申し出を受けますが、項羽は「たとえ郷里の人々が受け入れてくれても、もう合わす顔がない」とこれを断りました。

壮絶なる項羽の最後と、楚漢戦争の終結

項羽は渡し守の申し出を断ると、騅を彼にあずけ、追ってきた劉邦軍に突撃しました。最後の輝きを見せるがごとく、彼は1人で数百もの兵を倒したのです。

ここで彼は、敵の中に知り合いを発見します。

そして、「お前に手柄を立てさせてやろう」と言うなり、自らの首を掻き切って果てたのでした。

項羽の死により、項羽の「楚」と劉邦の「漢」が激突した楚漢戦争は終結しました。そして、劉邦は「高祖」となり漢(前漢)が建国され、200年以上永らえていくこととなります。

平和な時代の助走となった四面楚歌の故事

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中国史において、ようやく到来した漢という安定の時代の影には、項羽という滅びたヒーローと、彼が直面した「四面楚歌」の故事がありました。勝者は劉邦でしたが、四面楚歌の結末の悲しさは、項羽が後の時代にも人気が出た要因のひとつだと思います。日本の戦国時代でも、「今項羽」などと称された武将がいるほどなんですよ。このような中国の故事は、日本でもポピュラーな用語の由来となっています。

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