敗れた相手への残虐さが破滅へのカギとなった項羽
確かに項羽は強い武将で、負けるということをほとんど知らない男でした。しかし彼の場合、敗者に対する仕打ちがあまりにも残虐だったのです。
秦の大軍を相手に大勝利をおさめ、一躍英雄となるかに見えましたが、この時彼は20万人もの捕虜を生き埋めにして殺してしまったといいます。また、劉邦に降伏したはずの秦王を、一族含め皆殺しにしてしまい、都を焼き払ったうえに財宝を強奪してしまったということもありました。
度量の狭さを見せつけることもたびたび
それだけではなく、彼の度量の狭さが表れてしまったケースもありました。
秦から奪った咸陽こそ、地の利の点からいっても都にしてはどうかとある人物に提案されたものの、出身地の楚に都をつくることにこだわる項羽は、これを断りました。
提案を断られたその人物は、退出すると「楚人とは、サルが冠をつけているのと同じだと言われているが…まったくその通りだ」と呟きました。ところが、それを聞いていた護衛の者が項羽に報告してしまったのです。
項羽は激怒し、その人物をなんと釜茹での刑に処して殺してしまいました。
このように、耳に痛いことや、反対者の言葉を受け入れることができない項羽の度量の狭さが露呈すると、諸侯たちはやむを得ず彼に従ってはいたものの、内心では彼への反発を強めていったのです。
「受け入れる」ことができる男・劉邦
劉邦という男も、決して人間的に「できた」人物ではありませんでした。元々まじめでない部分もありましたし、自分がピンチになると子供を捨てて逃げ出すようなこともあったのです。
それでも彼が破滅しなかったのは、アドバイスを受け入れるという柔軟さがあったからでした。彼のもとには多くの有能な人材が集いましたが、劉邦は彼らの策を受け入れ、彼らに功績があれば、元来親分肌な劉邦ですから、恩賞を惜しむことはなかったのです。
項羽は一時的な情の深さを近くの者に見せることはありましたが、有能な者に対しては徐々に猜疑心を抱いたりして遠ざけてしまうようなところがありました。
このため、劉邦は何度も項羽に敗れましたが、そのたびに周囲の盛り立てを得て復活することができたのです。
「四面楚歌」に追い込まれた項羽
長引く戦いに疲弊した項羽と劉邦は、講和を結んで天下を分け合うことにしました。しかし、劉邦の側近たちは項羽追撃を進言し、劉邦はそれを受け入れたのです。こうして項羽は、垓下(がいか/安徽省蚌埠市固鎮県/あんきしょうほうふしこちんけん)という場所に追いつめられ、ここで「四面楚歌」のエピソードが生まれることになりました。
項羽、垓下に追いつめられる
劉邦の軍はどんどん数を増し、総勢40万にも膨れ上がりました。この時、対する項羽の軍は10万、4倍もの兵力差がついてしまったのです。
いつの間にこうなってしまったのか…項羽はそう思ったかもしれませんが、これはなるべくしてなった事態だったのかもしれません。
項羽の軍は垓下に追いつめられました。彼らは砦に籠もり抵抗しましたが、それを取り囲む劉邦の軍の陣は分厚く、脱出することもできないような状況となってしまいました。
そしてその夜、項羽の耳に歌声が聞こえてきたのです。
取り囲む劉邦の軍から「四面楚歌」が
籠城中の項羽は、周囲から聞き覚えのある歌が聞こえてくることに気づきました。
それは、彼の故郷・楚の歌だったのです。
項羽は、「楚はもう劉邦の手に落ちてしまったのか!?楚の人々はみな敵軍に組み込まれてしまったのだろうか…」
自分の味方であるはずの楚の人々の歌声が、敵方から聞こえてくるとは…この時の項羽の絶望感ははかり知れないものだったはずです。
とはいえ、これは劉邦の計略だったとも言われています。あえて自軍に楚の歌を歌わせることで、楚がすでに劉邦の手に落ちたと項羽に錯覚させ、戦意を失わせるのが目的だったとか。おそらく、この策も劉邦のブレーンたちによる献策だったと考えられます。