仁川沖海戦
こうして始まった日露戦争。日本はまず朝鮮の支配を安定させようと朝鮮に上陸を行いました。陸軍としたら朝鮮南端部の釜山に上陸したかったらしいのですが、結局ソウルに近く、上陸しやすい仁川に上陸するよう命令が下ります。日本海軍は手始めに仁川にいたロシアの軍艦を砲撃。ロシアの軍艦は見事に撃破され、仁川沖海戦という海戦は日本の勝利に終わりました。こうして無事に朝鮮に上陸した日本軍はロシアと結ぼうとしていた朝鮮に対して第一次日韓協約を締結。日本の許可なしに他の国と付き合ってはいけないとし事実上の保護下に置きました。
旅順の戦い
日露戦争の天王山。それは何と言ってもロシアが租借地としていた旅順でした。当時旅順はロシアの最新海軍基地に変貌を遂げており、西洋の最新機関銃を搭載した難攻不落の要塞となっていました。こんな要塞早々落とせませんが、ここを落とさなければここから兵がうじゃうじゃと湧き出てしまう。そのため日本軍は真っ先にこの旅順を陥落させにかかります。
当時、旅順方面最高陸軍指揮官となっていた乃木希典(乃木坂の乃木はこの人からだよ)率いる日本軍は遼東半島に上陸し旅順へ攻撃を開始しますが、初戦はロシアの機銃攻撃に耐えられず敗戦。6300人というとんでもない損害を出して撤退しました。乃木希典は撤退したけどこの旅順を陥さなければ日本は負けてしまう。さらに当時要塞の攻略法なんてほとんどなかったため日本軍は要塞に対してどんどん正面突撃させていきます。こうしないといけなかったと乃木は思っていたのでしょうかね。しかし、この攻撃が実ったのか12月には203高地という旅順近くの丘陵を占領。そこから砲撃を開始し、1905年1月には旅順を陥落。旅順にいたロシア軍は日本に降伏しました、
こうして旅順攻略戦は日本軍が1万6千人という犠牲を出してようやく日本が勝利をつかんだのでした。
バルチック艦隊の日本進撃
旅順で日本の陸軍が必死に戦をしていた時、日本が面している日本海でもう一つの戦争が起ころうとしていました。当時日本は旅順要塞がまさしく守護神のような守りの硬さのせいで落とせなかったことの他に、ロシアのバルチック艦隊が旅順に向かっていることに対しても非常に危機感を抱いていました。当時日本海にはロシアのウラジオストクという場所にもう一つの艦隊が存在しており、もしバルチック艦隊が日本海に到達したらそこから日本に攻めることができてしまうためもはやどんだけ旅順を落としても意味がありません。
日本としたらなんとしてでもこのバルチック艦隊をどうかしなければいけなかったのです。
しかし、日本には一つの勝てる根拠がありました。そう、上にも書いた通り日英同盟がこの時結ばれていたのです。当時そんな今みたいに給油もせず長距離移動することはできません。必ずどこかで食料の調達や燃料の補給をしなければいけなかったのです。そこに漬け込んだ紳士であり盗賊の国イギリスは当時イギリスがバルチック艦隊が通過する海岸のほとんどを支配していたことを利用して徹底的にバルチック艦隊を妨害。その妨害の仕方もかなりえげつなく、給油をしようと見せかけて2ヶ月ほど待たせた上で出来なくするという日本に対する時間稼ぎをあからさまに行なっていました
ロシアからしたらイギリスを恨めしく思っていたと思いますが、イギリスからしたら日本に大量のお金を貸してあげてるのにもし負けてしまったら貸したお金がパー。大損害を受けるかもしれません。そのためなんとかして日本に勝って欲しかったのです。
日本海海戦
そして1905年5月27日、日本海にてバルチック艦隊と日本の連合艦隊が遭遇。日本海海戦が勃発します。東郷平八郎が日本政府に送った「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は有名ですよね。
日本は東郷平八郎が率いており士気はマックスですが、相手はなんといっても世界最強クラスであるあのバルチック艦隊。普通であれば負けてしまいますね。しかし、長時間の航路、イギリスの妨害があり日本の軍艦よりも遅くなってしまいました。これだけでも日本にとって有利になったのですが、やはりこの日本海海戦の1番のポイントは東郷平八郎が思いっきり決断した東郷ターンだったと思います。
当時の軍艦は縦には弱いけど、横には強かったという性質を利用して丁字戦法という相手の列に対して横に並ぶという戦法を取っていました。東郷平八郎はこの丁字戦法を使ってロシアを圧倒するために相手の戦艦の前で思いっきりターン。普通なら回転している時に狙われてしまい沈んでしまうオチが待っていましたが、バルチック艦隊が遅かったことも功を奏しこのターンは成功。日本は圧倒的に有利となりどんどんバルチック艦隊を撃滅していきました。
日本海海戦の結果は日本の損害わずか二隻。一方のロシアはなんとか生還した船が二隻という海戦史上最大級の完勝で日本の勝利に終わりました。
奉天会戦
日本海海戦で勢いづいた日本は旅順だけではなく満州に向かって進撃していきます。そして満州の中心地である奉天という地域で激突。奉天会戦という戦争が起こりました。この戦争は日本軍30万、ロシア軍25万という第一次世界大戦が起こる前では最大級の戦争の一つだと言われており、日本もこんなレベルの戦争をしたことはありませんでした。しかし、日本軍特有の士気の高さがありこの戦争は終始有利に進めてロシアは満州から撤退。この奉天会戦は日本の勝利で終わりました。
日露戦争の講和
奉天会戦で勝って完全に日本の優勢となったのですが、日本はこの時戦費は尽きてしまいこの頃満足な銃弾も揃えなくなるなど限界に達していました。一方のロシアでも旅順を占領され、日本海海戦で負け、さらに奉天会戦でも負けて満州から撤退しようとしていたこの動きを見て「なんで日本ごときに勝てないのか!」と国民は怒り心頭です。
さらに当時のロシアは貴族や皇帝などは良い生活を送っているのに国民は今日食べるだけの食料があるかどうかの状態をさまよっていました。
そこで首都ペトログラードの民衆は貴族や皇帝に対して食料を求めてデモを起こしました。このデモは警察や貴族にアポを取っていたいたって健全なデモでしたが、皇帝からすればここから大革命が起こるかもしれません。そして皇帝を守ってる兵士たちは危害を加えていないにもかかわらずデモを起こした民衆に向かって発砲。血の日曜日事件とも言われるこの騒動によってロシア国内でも講和すべきだという声が上がり、講和に応じることになったのです。
こうして日本とロシアは日本の外交官と仲が良かったこの時のアメリカ大統領であるセオドア・ルーズベルトによってアメリカのポーツマスで講和条約が結ばれることになりました。