泥沼化する将軍継嗣問題と井伊直弼の大老就任
13代将軍徳川家定は病弱でした。そのため、後継者となる男児がいません。この時、将軍候補として挙げられていた人物は二人。
一人目は紀伊藩主徳川慶福(12歳)。御三家の一つ、紀伊徳川家に生まれた慶福は血筋の近さなら申し分ありません。しかし、12歳という年齢からこの難局に立ち向かえるか疑問がありました。
もう一人の候補者は御三卿の一つ、一橋家の慶喜(21歳)。すでに二十を超えていただけではなく、聡明さでも知られていました。血筋では慶福より遠くても能力は慶喜が上というのが当時の評価。
血統を重視する井伊直弼らの譜代大名は慶福を推薦、有力藩主や開明的な幕府役人らは慶喜を推薦していました。この後継者をめぐる綱引きは、井伊直弼が大老に任命されたことで慶福を推薦する南紀派が有利となります。結局、徳川慶福が名を徳川家茂と改め14代将軍になりました。
大老と老中の違い
江戸幕府において、幕府の重要事項を決める老中ら最高首脳部のことを幕閣といいます。江戸幕府では、一つの役職を複数に担当させることが通例でした。
例えば、江戸の町奉行。北町奉行と南町奉行に分けられていますよね。これは、老中も同じことです。複数の老中たちの話し合いで幕府の政治は動いていました。寛政の改革を実行した松平定信も、天保の改革を実行した水野忠邦も老中首座。彼らは、大老ではなかったのです。
大老に就任できるのはたったの一人。しかも、非常時のみに設置されました。大老は老中の上に置かれる職。権威の上でも権力の上でも一目置かれる存在でした。将軍が幼少・病弱な場合、大老の重要性は増します。井伊直弼は今までの老中たちより強い態度で事態の収拾に臨みました。
安政の大獄と桜田門外の変
大老に就任した井伊直弼は、勅許が得られず交渉が進んでいなかった日米修好通商条約を勅許なしで調印させます。これは、朝廷や天皇を軽視しているとして批判されました。井伊は批判勢力を容赦なく弾圧します。いわゆる、安政の大獄です。しかし、この弾圧がのちの桜田門外の変を引き起こしました。
井伊直弼、無勅許での日米修好通商条約を調印を黙認
通商条約を朝廷に認めてもらう交渉は難航していました。井伊直弼自身は勅許をもらうことを優先すべきだと考えていましたがハリスからの圧力は日増しに強まります。
幕府内部でも勅許がなくても条約を結ぶべきだという意見が強まりました。交渉担当者は井伊に「やむを得ない場合は調印しても良いか」と確認すると、井伊は「その時は仕方がないが、できる限り勅許をえるまで交渉を引き延ばせ」と指示。交渉担当者は「もう、時間稼ぎは限界だ」として日米修好通商条約に調印してしまいました。
結果的に勅許がないままの調印を認めた井伊直弼に対して将軍継嗣争いで敗れた一橋派の大名たちや朝廷の公家たち、諸藩の藩士たちの批判が強まります。
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桜田門外の変の原因となった安政の大獄
朝廷を敬い外国勢力を排除すべきだという考え方を尊王攘夷といいます。井伊直弼が天皇の許可である勅許がないまま日米修好通商条約を締結したことは、天皇を軽んじ外国に屈したとみなされ、激しい批判を浴びました。
井伊は幕府の決定に反対する人々を徹底的に弾圧し始めます。安政の大獄のはじまりです。一橋慶喜や攘夷派の中心人物で一橋慶喜の父の徳川斉昭(水戸藩主)、越前藩主松平慶永らの有力大名らが隠居に追い込まれます。
また、朝廷の左大臣や右大臣も隠居。さらに元小浜藩士の梅田雲浜、越前藩士の橋本左内、長州藩士の吉田松陰などを次々と逮捕。江戸に護送させたうえ死刑などとしました。処罰対象者は100名余に及んだといいます。この大弾圧を行った井伊に対して世間の反発は強まりました。
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井伊直弼、桜田門外の変で斃れる
安政の大獄にもっとも怒りが募ったのは水戸藩士だったのかもしれません。藩主の父である徳川斉昭は水戸に閉じ込められ、藩主の徳川慶篤は江戸城への登城停止。家臣の何人かが幕府に逮捕されるなどしていたからです。
このことに怒った水戸藩士の一部が脱藩し、井伊の暗殺を企てました。この動きに、一部の薩摩藩士が同調します。
1860年3月24日、旧暦では3月3日。諸大名たちはひな祭りのため江戸城に登城することになっていました。もちろん、井伊直弼も例外ではありません。
護衛は60名ほど。その日の天候は見通しが悪くなるほどの雪だったといいます。護衛たちは雪から武具を守るため袋をかけていました。これが、命運を分けることになります。突然、元水戸藩士らが井伊直弼の大名行列に抜刀して突入。護衛たちは武器を袋から出そうとしますが手間取ります。
その間、元水戸藩士らは立ちふさがる護衛を突破し井伊直弼の駕籠へ。そして、ついに元水戸藩士らは井伊直弼を討ち取ることに成功しました。この事件を桜田門外の変といいます。