~武田勝頼~強すぎたる大将
武田家の中では、信玄の次に有名な勝頼ですが、巷間言われてきたような猪突猛進のバカ殿ではなかったということが知られてきています。まず生まれからして複雑な生い立ちでした。まず母が信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘だったこと。そして諏訪氏の名跡を継いだこと。本来なら武田家を継げるだけの血筋ではないはずなのに、運が重なって家督が転がり込んできたことなどが挙げられるでしょう。ただでさえ正統派ではないのに消去法で選ばれたようなものです。
しかも家臣や領民から偉大な「神」と崇められていた父親が亡くなり、自分が代わりに「神」とならなければ家臣は離反し、国は崩壊する。と考えたのでしょう。だからこそ勝頼は自分の力量以上に頑張ろうとしました。その頑張りの度合いが強すぎて長篠の戦いでは惨敗しますが、多くの家臣を失くし落ち目の武田家をその後7年間も存続させたのは、やはり勝頼の力量が大きいのではないでしょうか。
我が国を滅ぼし、我が家を破る大将、四人まします。
第一番は馬鹿なる大将、
第二番は利口すぎたる大将、
第三番は臆病なる大将、
第四番は強すぎたる大将なり
これは甲陽軍鑑にある武田信玄の言葉です。まさに勝頼は「強すぎたる大将」だったのではないでしょうか。
~仁科盛信~武田に殉じた勇将
仁科盛信は、信玄の五男です。五男といえばもう本家の家督など継ぐ可能性もなく、江戸時代で例えるなら部屋住みのような待遇を余儀なくされていたはず。しかし戦国の世では違いました。信濃の名族である仁科家へ養子に入り、武田家が終焉を迎えようとするまさに最後の瞬間、彼は最も輝きました。
長篠での惨敗後、斜陽の一途をたどる武田家。織田軍侵攻の知らせに武田家の重臣や配下は次々と離反し、主君勝頼を見放します。もはや戦いらしい戦いもなく武田軍は逃げ惑うばかり。遠江から伊那へ抜ける織田軍主力はほとんど抵抗されることもなく甲斐へ進軍しました。しかし伊那を抜けて高遠へ差し掛かったところで、まったく逃げもせず戦う気満々の武田軍が。高遠城を守る盛信の軍勢が待ち構えていたのですね。
織田の大軍に対してまったく怯むことなく戦い続け、織田方は大損害を被ります。まさかこれほど強い武田の軍勢が残っていたとは織田方の将兵も驚愕したことでしょう。しかし善戦を続ける武田軍もどんどん数を減らし、いよいよ最期の時が。武門の誉れを大いに見せつけたのち盛信は自刃。しかしその戦いぶりはずっと後世まで語り草になったということですね。
信玄の娘たち
戦国の頃には、女子も同様に実家の政略の道具として使われました。当時の習わしを現代の考えで推し量ることは難しいですが、それでも彼女たちは自分に与えられた運命を受け入れて生きていったのです。
この当時のお姫様の名前が何というのか?そして何と呼ばれていたのか?一部を除いてほとんど判明していません。なぜなら男子と違って女子の存在というのは非常に軽かったからでしょう。だから系図などを見ても「女」としか記されていないことが多いのです。亡くなった後の墓碑銘などから「〇〇院」という名前だった。ということが判明するくらいですから。
~黄梅院~氏政に愛された薄幸の姫
黄梅院は信玄の長女として誕生し、12歳の時には既に輿入れしています。輿入れ先は北条家。当時は関東を支配する戦国大名として君臨していました。お相手はまさに御曹司だった北条氏政で、甲斐から相模へ続く輿入れの行列は大変豪華なものだったらどうしく、いつまでも途切れることはなかったらしいですね。ところで北条家での生活は、氏政が大変優しくしてくれていたようで、夫婦仲も誠に良く、3人の子供にも恵まれたとのこと。戦国の世には珍しいおしどり夫婦だったのですね。
ところが、信玄が駿河に対して牙を向いたことで、黄梅院の運命も変転してしまうことに!当時、北条家は駿河の今川家と同盟を結んでいましたから、これに怒った当主の氏康は無理やり氏政と黄梅院を離縁させ、甲斐へ送り返してしまいます。幸せに暮らした14年間から一転して家族と離れ離れにならざるを得なかった黄梅院の心情はいかばかりだったでしょうか。
氏政と離縁した後は、出家し鬱々とした生活を送りますが、北条家を出てからわずか半年後に亡くなってしまいました。享年27歳。泣く泣く家族と離れなければならなかった黄梅院を不憫に思い、父信玄は黄梅院という寺院を建立し、夫だった氏政もまた箱根の早雲寺に彼女の遺骨を分骨したのでした。
~見性院~将軍の子を育てた女丈夫
見性院は信玄の次女として生まれました。武田の血を引いた重臣である穴山家へ輿入れし、親族衆の柱石として武田家を支えるはずでした。しかし武田家滅亡の要因を作ったのが誰あろう夫の穴山梅雪だったのでした。梅雪は武田を裏切って織田徳川につき、その代償として武田家を自らが継承することを約束されたのです。
しかし程なくして織田信長が本能寺の変で暗殺され、梅雪もまた、その煽りを食って殺されてしまいます。その後、主のいなくなった甲斐をまとめ上げたのが徳川家康だったのですが、その際に見性院も庇護されて後年江戸城へ移り住みました。
そして時は経って徳川の世。二代将軍秀忠は正室のお江に内緒で奥女中に手を付け、男子が生まれますが、誰かがきちんと養育しなければなりません。気の強いお江の圧迫を跳ね返すだけの気性と器量を併せ持ち、かつ高貴な血を持つ人物として見性院に白羽の矢が立ったのです。
見性院は、もしかしたら絶えてしまった武田の家名をこの子が継いでくれるかも知れない。と期待していたのかも。その願いは叶いませんでしたが、成長したその子は信州の名族保科家を継ぎ、兄である将軍家光の片腕として「江戸時代屈指の名君」と呼ばれるようになるのでした。
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