日本の歴史飛鳥時代

5分でわかる「崇峻天皇」なぜ殺された?日本史上唯一暗殺された天皇の生涯をわかりやすく解説

仏教伝来による蘇我氏と物部氏の対立

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大和朝廷内の豪族たちによる権力争いは、最終的に蘇我氏と物部氏が残る形になります。蘇我氏はもともと大和盆地の南の葛城にいた在地豪族で大臣(おおおみ)であり、物部氏は神武天皇(いわれひこ)が大和に入る前から使えていた大連(おおむらじ)でした。そのため、物部氏は大和朝廷が天照大神を祖先神とする神道を重視していましたが、蘇我氏は積極的に新しい渡来民族を取り込む姿勢を見せています。そのため、6世紀前半に伝来した仏教に対して蘇我氏は積極的に導入をはかり、飛鳥寺を建立したりしていましたが、物部氏はそれに反対し、飛鳥寺を焼き討ちしたりしました。そのため、両者は大和朝廷内で対立姿勢を強めたのです。

天皇家との婚姻関係によって力を持つ蘇我氏の台頭

もともと物部氏は神武天皇が大和に入ったときからの大王家の家臣であったため、当時の物部尾輿(おこし)は大王家に対する影響力は強かったといえます。それに対して、大和の土着氏族の蘇我氏は大王家の豪族としては後発でしたが、次第に台頭し、6世紀にはいると大王家(天皇家)との婚姻関係を結ぶことで力を強めていきました。

とくに蘇我馬子の父にあたる蘇我稲目(いなめ)の時代になると、継体天皇の次の大王となった用明天皇に二人の娘である堅塩媛、小姉君を嫁がせます。そして蘇我氏は大王の外戚として力を持つようになっていきました。

蘇我馬子による物部氏の討伐と崇峻天皇擁立

物部尾輿の跡を継いだ守屋と蘇我稲目の跡を継いだ馬子も対立姿勢を強めます。用明天皇が崩御すると、物部守屋は穴穂部皇子を擁立しようとしました。しかし、それに反対する蘇我馬子は、その穴穂部皇子を暗殺し、甥で用明天皇の皇子であった厩戸皇子(聖徳太子)を伴って物部守屋までも滅ぼしてしまったのです。聖徳太子は、用明天皇の后であった堅塩媛の息子であり、馬子にとっては親族と言えました。

この事件によって、蘇我馬子は朝廷で独裁的な権力を確立し、その勢いで587年に同じ蘇我一族の媛を嫁がせた泊瀬部(はつせべ)皇子を崇峻天皇として擁立し、即位させたのです。泊瀬部皇子は蘇我馬子の娘であった河上娘(かわかみのいらつめ)を后にしていいました。一説では、東漢駒は崇峻天皇を殺害した後、河上娘を奪ったため、蘇我馬子は駒を処刑したという説もあります。

聖徳太子(厩戸皇子)も物部守屋討伐に参加しましたが、その戦いの凄惨な様を見て、心を痛め、深く仏教に帰依するようになったといわれているのです。

権力を握った蘇我馬子が崇峻天皇を擁立

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587年に泊瀬部皇子は、蘇我馬子によって崇峻天皇として即位しましたが、当時の天皇家の力のなさに気づき、天皇家としての意識が強くなり、蘇我馬子を憎むようになっていきます。そのため、天皇中心の大和朝廷を目指し、蘇我馬子にとっては邪魔な存在になっていったのです。

崇峻天皇の政治姿勢は蘇我氏憎しへ

もともと崇峻天皇は蘇我馬子の娘を后にしており、馬子のお陰で大王位に就けたと言えますが、実際の朝廷の実験は馬子が握っていました。そのため、崇峻天皇は天皇としての力はなく、それを不満に思うようになったのです。ある時、崇峻天皇は、刀で儀式のお供えの猪の目を突き刺し、「いつかこの猪のように、自分が憎いと思っているものの首を切りたいものだ」と言ったことが馬子の耳に入ります。

蘇我馬子による崇峻天皇殺害の計画

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崇峻天皇が、自分を嫌っていることを知った蘇我馬子は、すぐに崇峻天皇の暗殺を画策し、東漢駒をそそのかして、崇峻天皇を殺すように命令したのです。東国からの貢ぎ物を受けとる(調)ためと言って、その儀式に崇峻天皇を呼んで、その場で駒に殺害させる計画を立てたのでした。

そして、東漢駒による崇峻天皇暗殺の計画は実行に移され、天皇家の歴史のなかでも唯一の大王殺し事件が起こったのです。

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