日本の歴史飛鳥時代

5分でわかる「崇峻天皇」なぜ殺された?日本史上唯一暗殺された天皇の生涯をわかりやすく解説

裏切られた東漢一族のあわれさとその後の蘇我馬子

あわれだったのは東漢氏一族でした。大王殺しの汚名を着せられた上に、一族皆殺しになったのです。蘇我馬子は崇峻天皇時代までは、敵対する者は躊躇せずに征伐するという非情な面がありました。

しかし、蘇我馬子はその後、比較的温厚な面を見せ始めます。すなわち、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)をはじめての女帝として推古天皇に据え、その摂政に厩戸皇子(聖徳太子)を就かせました。そして、聖徳太子がどんなに馬子と政策的に対立しても常に太子の面目を立てさせていました。恐らく、崇峻天皇の暗殺は馬子にとっても想定外であり、かなり反省をしていたと言えるでしょう。

ただ、馬子の子供と孫の蝦夷と入鹿は、若い頃の馬子の非情さを復活させてしまいます。聖徳太子を斑鳩の里に押し込めて宮廷に出てこれなくさせ、太子の死後にはその息子の山背大兄皇子を法隆寺で殺害しているのです。

蘇我氏の権力独占によって天皇家(大王家)に権力回復の願望が生まれる

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このように、蘇我馬子以来の蘇我氏の大和朝廷における権力独占による横暴が、逆に大王家のなかに大王中心の政治への回帰願望を生んでいきました。崇峻天皇の恨み、聖徳太子の無念さ、山背大兄皇子の悲惨さは、次代の中大兄皇子によって大化の改新による蘇我一族殺害に繋がっていったのです。

権力争いの犠牲になった崇峻天皇と現代の様相

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崇峻天皇だけではなく、東漢駒も含めて大和朝廷の権力争いの犠牲になったといえるでしょう。それは、古代の昔から確立していた大王家というものが後継者がいなくなったことによって権力基盤が揺らいだことがその背景にありました。現在の日本も、1955年に成立した55年体制が冷戦の終結によって揺らいでしまい、混沌とした世界情勢の中で渦巻く権力争いが生じています。本当に実力のある政治家が姿を消したこともそれに拍車をかけているといえるでしょう。いずれにしても、しっかりと日本の将来を見据えることのできる本当の実力のある政治家が現れることを祈るばかりです。

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