朝敵となった足利持氏
こうなると、持氏は当然、憲実討伐の兵を招集して出陣します。すると、かねてから持氏を良く思っていなかった将軍・足利義教が黙ってはいませんでした。憲実を救援するという名目で出兵が決まり、駿河(するが/静岡県中部・北東部)守護・今川範忠(いまがわのりただ)や信濃守護・小笠原政康(おがさわらまさやす)を中心に、かつて持氏に反乱を起こした上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の息子である上杉持房(うえすぎもちふさ)や教朝(のりとも)などによって軍が編成されたのです。
加えて、義教は天皇から発給される綸旨(りんじ)と、朝敵を討伐する証である錦の御旗(みはた)までもらいます。つまり、持氏はこれで朝敵となってしまったのでした。
永享の乱の勃発とその後の情勢
永享の乱は、朝敵となった足利持氏は幕府軍にあっけなく敗れ去り、ほぼカタがつきます。戦後、上杉憲実は持氏助命のために奔走しますが、将軍・足利義教が持氏を許すことはありませんでした。乱は終結したとはいえ、大きな禍根を残すこととなります。戦後、状況はどうなっていくのでしょうか。
永享の乱の幕開けとあっけない終戦
永享10(1438)年、持氏軍と幕府軍が衝突し、永享の乱が勃発しました。
持氏は打倒幕府に向けて鼻息荒く臨んだ戦いでしたが、蓋を開けてみれば、幕府軍の方がはるかに多く、あっという間に劣勢となります。加えて、持氏が朝敵扱いとなったことで、これまで味方していた勢力が続々と彼から離反してしまったのです。
このため、持氏は意外なほどあっさりと敗北しました。そして出家し、鎌倉の永安寺(えいあんじ)に入ると、かつて対立した上杉憲実に幕府との交渉を依頼したのです。
足利持氏の自害で幕を閉じる
持氏に討伐されかけた憲実ですが、彼は持氏の頼みを聞き入れ、幕府に対して持氏の助命と息子・義久の鎌倉公方就任を重ねて頼み込みました。本当に、彼は持氏と幕府の間を取り持とうという気持ちが大きかったのだと思います。
ところが、将軍・義教はそれをまったく聞き入れず、バッサリと斬り捨てました。それどころか、憲実に対して持氏を討伐するように命じたのです。猜疑心が強く苛烈な処断から「万人恐怖」と呼ばれた義教に、容赦はありませんでした。
そして、永享11(1439)年2月、憲実はやむなく永安寺を攻めます。最後を悟った持氏は、義久らと自害を遂げ、永享の乱は終結したのです。
永享の乱がもたらしたもの
持氏の死から1年後、結城氏朝(ゆうきうじとも)が、持氏の遺児・春王丸(しゅんおうまる)と安王丸(やすおうまる)を奉じて挙兵し、結城合戦(ゆうきかっせん)が起こります。しかし敗れ、まだ11,2歳だった春王丸と安王丸は斬首されてしまいました。
また、上杉憲実は出家し、伊豆に退きました。二男以外の子供をみな出家させたというのですから、彼がいかに持氏を討ったことを悔いていたかがわかると思います。しかし、長男・上杉憲忠(うえすぎのりただ)が家臣に擁立されて関東管領に就任すると、憲実は憲忠に対して「不忠者!」と叱責し、領地を取り上げ、親子の縁を切ってしまいました。彼はあくまで亡き持氏に配慮し続けたのです。
春王丸と安王丸は死にましたが、持氏にはまだ息子が残されていました。それが足利成氏(あしかがしげうじ)で、彼はやがて鎌倉公方に復帰します。当然ながら、彼は憲実や憲忠を仇とみなしていましたから、憲忠を殺してしまいました。そして、これをきっかけとして、永享の乱のほとぼりも冷めやらぬうちに、関東は享徳の乱(きょうとくのらん)という大乱に巻き込まれていくこととなるのです。
室町幕府の先行きに暗雲をもたらした永享の乱
永享の乱は、室町幕府と鎌倉府の対立が具現化しただけではなく、その後の足利義教の暗殺後、情勢の不安定化を大いに招く端緒となりました。持氏のDNAを受け継いだ息子の足利成氏により、さらに鎌倉府の反抗は続いていくこととなります。その後すぐに関東の戦国時代の幕開けと言われることもある享徳の乱が発生したことを考えてみても、永享の乱は、戦国時代の始まりという導火線に火をつけた乱と言えるのかもしれません。