平安時代日本の歴史

日本の仏教宗派のきっかけ?【天台宗】をわかりやすく解説

武蔵坊弁慶のエピソードもある戦い

双方とも僧兵がたくさんおり、公家や武士達の有力パトロンがついていました。園城寺へ行った時のガイドのおじいさんの話では「延暦寺から僧兵が何度も攻めてきて、攻めてきたのを察知したら、みんなで寺宝を抱えて逃げ出して、いなくなったら戻ってきて復興するの繰り返しの歴史」だったと言ってましたよ。園城寺の逸話には、園城寺も戒壇院を作ろうとしたところ延暦寺に邪魔をされてできなくなり、住職が延暦寺を呪詛したそうですよ。幾日かたったころに静かになったので様子を見にいくと衣だけが残っていて姿がない。不思議に思っていたら延暦寺で大量のネズミが発生して、比叡山の経典を全て破壊したというのがありますよ。なんだか凄まじいですね。

有名なところでは、園城寺は「三井寺」ともいわれていて、昔から「三井寺の梵鐘」は風物詩として名高いですね。その梵鐘を延暦寺の僧兵をしていた「武蔵坊弁慶」が担いで延暦寺に持って行ってしまったというのですよ。延暦寺はどんないい音が出るかと期待して鐘をついたら「イヌ(帰る)~イヌ(帰る)~」と鳴って何度やってもそうなるので、キレて「そんなら、居ね(帰れ)!」と山から蹴落としました。それを知った園城寺の僧達は慌てて拾いにいったそうな。その鐘と、弁慶がその時に使ったという鍋が園城寺に展示されてました。

織田信長の比叡山焼き討ちはなぜ起きた?

Enryakuji1.jpg
投稿者がファイル作成 – ブレイズマン (talk) 09:02, 23 November 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

織田信長の有名なニックネームに「第六天魔王」というのがあります。第六天魔王というのは誰なんだろうと思いますよね。実は「他化自在天」という十界の中の6番目にある天界の神様のひとりなのですが「魔王」。そう言われるのは「人の願望や欲を叶えてやり、その快楽を自在に自分の快楽にしてしまう」という、欲を捨てなければならない仏教の教えの中では異端なので魔王といわれているのですよ。織田信長が自分の快楽のために比叡山を焼き討ちした「仏敵」だからそう呼ばれた?漫画や小説などみたいに自分で言った?と普通は思ったりしますよね。

実はそんなことではなく、そんなことを言ったという記録が唯一残っているのが、当時日本にキリスト教を布教に来ていた宣教師「ルイス・フロイス」が、日本布教長「フランシス・ガブリエル」に日本の情勢を知らせる手紙だったというのですよ。それには「武田信玄が織田信長に(比叡山焼き討ちを糾弾した)手紙に、調子に乗って『天台座主沙門信玄』と署名したのです。これに対しての返事に織田信長は『第六天魔王信長』つまり仏教に反対する悪魔の王と署名して返しました」という、子供の喧嘩ですか?みたいなことが発端だったんですね。

それまでの延暦寺と政治

「天台座主」は、創設された頃は「比叡山で一番徳が高くて偉くて賢い人」という人がなっていたのですが、途中から朝廷の太政官が任命する公的な職業となりました。そのめに代々の座主の主だった人たちは皇族・貴族・足利将軍家出身の僧侶などが歴任することとなっていたのですね。そのために朝廷に文句があると僧兵達が「日吉大社のお神輿」を御所まで担いでいって放り込み「天皇自ら持って来い」などという強訴も記録にありますよ。奈良の興福寺も常連だったようですが。

とにかく政治に口を出すわ、反朝廷勢力と一緒になって強訴だけでなく戦いまで挑んでくるのですからたまったものではありません。鎌倉幕府ができた時に、幕府の御家人達は京都や奈良の高僧を招いて自分たちの権力を示すためにお寺を建てましたが、なんと天台宗はなかったそうですね。鎌倉幕府の政治に口を出して欲しくなかったんじゃないかと言われてますよ。

比叡山焼き討ち

事の発端は、永禄11年(1568)織田信長が室町幕府13代将軍「足利義輝」の弟である「足利義昭」を奉じて15代将軍にすえて「室町幕府」を復興。そして武士の頭領としての将軍のもとで「天下布武」を実現しょうと諸大名に上洛を求めたのですよ。ところが越前の「朝倉義景」がやってきません

永禄13年(1570)4月に、織田信長は軍勢を率いて朝倉義景のいる一乗谷に向いました。しかしまさかの妹「お市」が嫁いでいて同盟を結んでいた「浅井長政」が挟み撃ちをしてきたのですよ。命からがら織田信長は京都に戻り、軍勢を立て直して反撃に向かい「姉川の合戦」をはじめとする戦がはじまったのですね。織田軍に追われた兵達は比叡山に逃げ込みますよ。

京都という土地は「攻めやすく守りにくい」と昔から言われていて、京都の北にある比叡山京都を見下ろすかっこうの場所で、坊もたくさんあってヘタをすれば数万の軍勢が結集しやすい京都を攻めるには好都合な場所にあったのです。そこで織田信長は「手出しをしないで傍観していたら(延暦寺から横領していた)土地を返却する。そうでなければ攻撃しますよ」とお願いとも脅しともいえる手紙をだしたのですが、延暦寺は黙殺して兵達を引き入れ続けますよ。

軍が集まって拠点となることを危惧した織田信長は、一部の「仏罰がくだるからやめましょう」という家臣の言葉も聞かず、元亀2年(1571年)9月12日に全軍をあげて攻め込んだのでした。延暦寺は根本中堂をはじめ諸堂がほぼ全部が焼き払われて、比叡山にいた3~4千人の男女は皆殺しにされ、火災は4日間続いたといわれていますよ。

しかし、今の研究によると、それほどの大惨事のわりには山の中での発掘では焼け残った木材や人骨がそれほど残っていないので、実は比叡山というより坂本で行われたのではないかといわれていますね。不便な山頂あたりではなく、便利な坂本に主要な施設が集まっていたからといわれていますよ。

延暦寺は先に書いたように武田信玄に助けを求めますが、武田信玄は病死。もうダメかと思っていたら織田信長は暗殺されて、「豊臣秀吉」の時代になって「僧兵を置かないこと」を条件に復興が許されたのですね。江戸時代になると「天海」が「徳川家康」の力を借りて天台宗を立て直していきます。徳川家の菩提寺の「寛永寺」は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれて全国に及んでいったのですよ。

天台宗と真言宗の歴史的和解

image by PIXTA / 39144043

共に同じ遣唐使の船に乗って中国まで行った最澄と空海。日本に帰ってきてからも交流がありましたよ。中でも密教の勉強は、最澄は傍流のものでしたので、本流の密教を勉強してきた空海から教えてもらったりしていたのですね。ここが空海の弟子といわれてしまうゆえんなのですが。ある時、最澄は密教の本を借りようとお願いしますが「これは密教にとっては大切なものだからだめだ」と断られてしまいますよ。それが原因ともいわれていますが、最澄の弟子で密教に魅せられて空海の弟子になった者もいたり、空海の甥が最澄の弟子になったりと、色々とあったのでしょうね。そこから天台宗と真言宗の公式の交流は途絶えてしまったのですよ。

そして1200年の時は過ぎて、平成21年(2009)6月15日天台宗の「半田孝淳」天台座主が、高野山真言宗総本山の金剛峯寺(松長有慶座主)で営まれる「宗祖降誕会」に参列して、弘法大師・空海の御廟をお詣りされたのですよ。実はその4年前「天台開宗1200年」の法要には、当時の真言宗の「資延敏雄」金剛峯寺座主が法要に参加したそうですね。天台座主が高野山へ行くのは公式記録「天台座主記」などにも記述がなかったそうですね。

お互いに天台宗と真言宗のトップである座主になられて以来、全日本仏教会などでの会合などでお会いしていて、天台座主が「一度高野山にお詣りに行きたい」と言われていたので、真言宗からお誘いしたそうですよ。なんだか感動してしまいますよね。

今も続いている最澄の心と灯火

最澄の言葉に「一隅(いちぐう)を照らす、これ則ち国宝なり」というものがあります。個人がそれぞれの立場や場所で精一杯努力することこそ国の宝だという意味ですね。この言葉は大切にしていきたいものです。

令和2年延暦寺から「この度のコロナ禍にあたり、伝教大師最澄様が願いを込めて灯された「不滅の法灯」を、令和2年5月11日から24時間生配信いたします 1200年絶やさずに守り続けられてきたこの灯火の輝きが、多くの方々の励ましの力となることを願います」というTwitterがありました。

1 2 3
Share:
紫蘭