平安時代日本の歴史

日本の仏教宗派のきっかけ?【天台宗】をわかりやすく解説

東塔

延暦寺発祥の地です。延暦7年(788)に創建した庵が元となっていますよ。

〇根本中堂(国宝)
延暦寺の総本堂となります。ご本尊は「薬師如来」ですね。現在の建物は「徳川家光」の命令で寛永19年(1642)でできたものですよ。ご本尊の前には有名な1200年間灯り続けている「不滅の法灯」が安置されています。「織田信長」の焼き討ちで消えてしまったのですが、山形県の「立石寺」に分灯されていたものを移して、それが現在まで続いていますよ。廻廊は国重要文化財に指定。

〇大講堂(重文)
本尊は「大日如来」それを囲むように、比叡山で修行した「日蓮」「道元」「栄西」「円珍」「法然」「親鸞」「良忍」「真盛」「一遍」が左から安置されていますよ。各宗派からの奉納だそうですね。

〇法華総持院東塔
 最澄が日本中に建設した6つの多宝塔の中心。下層に「胎蔵界大日如来」、上層に「仏舎利」「法華経1000部」が安置。

〇無動寺  
有名な「千日回峰行」の拠点。不動明王と弁才天を祀っています。貞観7年(865)回峯行の創始者とされる「相応和尚」が創建。

〇文殊楼(重文)  東塔の山門。二階建てで階上に「文殊菩薩」を安置。

〇万拝堂 
日本中の寺院・神社の諸仏諸菩薩諸天善神だけでなく、世界中の神々が奉納されて世界平和を祈っている

〇大黒堂 
日本の大黒天信仰の発祥の地。 「三面出世大黒天」は大黒天と毘沙門と弁財天が一体になった姿。

〇阿弥陀堂 檀信徒向けに建立された先祖供養のお堂。
〇戒壇院(重文)  延宝6年(1678)に再建。

西塔

〇転法輪堂(重文)
西塔の中心堂で「釈迦堂」ともいいますよ。織田信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595)に「豊臣秀吉」が
「園城寺」弥勒堂を豊臣秀吉が無理やり移築。現存する延暦寺の建築では最古(南北朝時代のもの)で、本尊は「釈迦如来立像」(重文)。

〇常行堂・法華堂(重文) 
全く同じ形のお堂が左右に並んでいますよ。右が「普賢菩薩を本尊」の「法華堂」左が「阿弥陀如来」を本尊の「常行堂」2つの堂の間に渡り廊下があって天秤棒に似ているところから「にない堂」ともよばれていますよ。

〇浄土院 最澄の廟(お墓)があるもっとも神聖な場所。
〇瑠璃堂(重文) 織田信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂。室町時代の建築。
〇黒谷青龍寺  法然が修行した場所として有名。
〇相輪橖 (重文)

横川

延暦寺3代座主の「円仁(慈覚大師)」が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥。この円仁は最澄の弟子の中で「止観(法華経の注釈書)」を最澄にかわって講義できるというほどの秀才で、唐にも渡っていますよ。「世界3代旅行記」ともいわれている「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」という本まで書いてますよ(残りの2つはマルコ・ポーロの「東方見聞録」と、玄奘三蔵の「西遊記」)。南都仏教からの嫌がらせや、真言宗の興隆の最中で頑張った偉大な人ですね。

〇横川中堂
昭和17年に落雷で焼失したために鉄筋コンクリートの建物になっています。本尊は聖観音立像(重文)

〇根本如法塔  多宝塔で、円仁が法華経を写経し納めた塔が始まり。
〇恵心堂  後の浄土宗・浄土真宗の元となる教義を築いた「恵心僧都源信」のお堂。
〇安楽律院  天台宗安楽律法流の道場。
〇定光院 日蓮が住持して横川で勉学したお堂。現在は日蓮宗が管理

特筆すべきは「四季講堂(元三大師堂)」です。18代座主の「元三大師良源」の住居跡。村上天皇の命によって春夏秋冬の四季に論義されたことから四季講堂とよばれています。この元三大師という人は1月3日に生まれたので「元三」という名前になったそうですね。疫病が流行った時に自らの姿を餓飢に変じて疫病を打ち払ったという話がありますよ。法華経をわかりやすく歌に詠んだもの「おみくじ」の元となったいますね。おみくじというのは神社からではなく、天台宗が発祥だったのですね。1月3日は縁日なのですが、ほとんど場合は雪で参拝するのが難しいと、元三大師信者の知合いが言ってました。

修行ってどんなことをするの?

比叡山での修行はけっこう過酷ですよ。ざっくりとですが紹介していきましょう。

〇千日回峰行
一番知られている修行ですね。途中挫折したら自らの命を絶つための懐刀を持参しながら、生きとし生けるものを礼拝していくという「常不軽菩薩」の修行ともいわれていますよ。内容は、ぶっとおして1000日ではありませんよ。7年間かけて行なわれるんですね。その間の食事制限もあるそうですよ。

〇十二年籠山行
浄土院で今も生きている最澄に奉仕する行と知ってはいたのですが、その前にも礼拝し続ける「好相(こうそう)行」をしてから戒壇院で戒を受けて、ようやく「籠山比丘」という刺客をもらってから12年奉仕する行だそうです。

〇四種三昧
中国の天台大師・智顗の「摩訶止観」に基づく、基本の修行ですね。
・トイレと食事以外ずっと坐禅をする「常坐三昧」
・決して座ったり寝転ぶこともできず阿弥陀仏のまわりを念仏を唱え続ける「常行三昧」
・法華経を唱えて五体投地を続ける「半行半坐三昧」
・上の3つ以外の身体の行儀を問わないすべての行「非行非坐三昧」

延暦寺と三井寺園城寺の仁義なき戦い?

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法華経を根本経典である天台宗なのですが、最澄から遅れて帰ってきた空海が密教を布教しはじめたことで、少々旗色が悪くなってきたのですよ。最澄も密教を学んだのですが、やはり「どちらが最高なのか」という話になってきます。天台大師・智顗の時には密教はまだ中国に渡ってきていなかったので行った教判の中には入っていませんので難しい話となってきたのですよ。その流れの中で、天台宗を2分してしまうことが起きたのですね。

なぜ対立することになったの?

3代目座主になった円仁は、最澄や空海が日本へ搬入しなかった経典や新訳経典を持って帰って密教の発展に活躍した人ですが「法華経も密教も同等」としていています。しかし5代目座主になった円珍「同じ教えだけど密教のほうが大事」と考えたのですね。おまけに円珍は空海の甥(姪の息子とも)なので話がややこしくなりますよ。お互いに仲が悪いという話は残っていないので、お互いに法論しながら研鑽していたのかもしれませんが、ふたりの説に同調した「円仁派」と「円珍派」というのが自然と出てきたのですね。

円珍は天台座主になってから朝廷から「園城寺」を賜ります。そこで密教における「伝法灌頂」の道場としたのですよ。そのために2人の没後、延暦寺が円仁派が大半を占めてきたために円珍派は園城寺へと移りました。そこから延暦寺は「山門派」園城寺は「寺門派」に分かれてしまったのですね。

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紫蘭