日本の歴史昭和

多くの餓死者を出した餓島「ガダルカナル島の戦い」を元予備校講師がわかりやすく解説

第一次ソロモン海戦

アメリカ軍のガダルカナル島上陸と飛行場の占領を知った日本海軍は、ラバウル航空隊とソロモン諸島周辺を管轄する第八艦隊に対し、直ちに反撃するよう命じました。

ラバウル航空隊は周辺にアメリカ軍空母が存在していることを察知しますが、出撃した部隊は大打撃を受けてしまいます。アメリカ軍空母は日本軍機の空襲により、付近に空母がいると誤認。上陸部隊の護衛を放棄して退避してしまいました。

ガダルカナル島近海に到着した第八艦隊は、ガダルカナル島に停泊中のアメリカ・オーストラリア艦隊に夜襲を仕掛けます。雷撃戦に長けた第八艦隊はアメリカの護衛艦隊を撃破しました。残すは停泊地にいる輸送船団だけです。

ところが、第八艦隊は輸送船団攻撃を行いませんでした。ラバウル航空隊が壊滅的打撃を受け、制空権を失った状態で湾に突入すれば、上空からの攻撃で大打撃を負うと判断したのかもしれません。結局、日本軍は上陸直後のアメリカ軍を排除する可能性を失いました

一木支隊の潰滅

一木清直大佐率いる部隊は、本来、ミッドウェー島攻略のために動員されました。しかし、ミッドウェー海戦で日本海軍が敗北したため、作戦目標を失った一木支隊はグアム島に駐留します。ガダルカナル島奪還作戦が発動すると、一木支隊は奪還部隊の先鋒としてガダルカナル島に派遣されました。

一木支隊は、輸送艦よりキャパシティの小さい駆逐艦で輸送されたため、本来よりも少ない兵力でガダルカナル島に到着します。一木大佐に伝えられていた敵戦力は2,000程度。しかし、実際にはそれをはるかに上回る10,000余のアメリカ軍が待ち構えていました

十分な装備もなく、軽武装の少数部隊でしかなかった一木支隊は、たくさんのアメリカ軍の包囲攻撃にあい壊滅してしまいます。

繰り返される戦力の逐次投入と補給の途絶

一木支隊を壊滅させたアメリカ軍は、ガダルカナル島の飛行場を急ピッチで整備。ヘンダーソン飛行場と名づけて、周辺の制空権を確保しました。第二次ソロモン海戦のとき、アメリカ軍はヘンダーソン飛行場に増援の航空機を配備することに成功。ますます、アメリカの制空権は強固なものとなりました。

一方、日本軍は輸送艦による大規模な増援ができず、駆逐艦や小型艦艇を使った小規模輸送でガダルカナル島に援軍を派遣します。しかし、ヘンダーソン飛行場の航空隊による妨害にあい、かなりの戦力を損耗しました。

せっかく、ガダルカナル島に到着しても十分な食料をもたない増援部隊は、たちまち飢餓に瀕します。補給が途絶したガダルカナル島は「緑の砂漠」と化し、ガダルカナル島は「餓島」とよばれるようになりました。

「餓島」からの撤退

日本軍は、地上軍だけでも36,200人もの兵力をガダルカナル島に投入しました。対するアメリカ軍はそれにほぼ倍する60,000人でヘンダーソン飛行場の守備を図ります。戦力の逐次投入が繰り返された結果、日本軍の死者は19,000を数えました。

陸軍はなおもガダルカナル島への増援を主張しましたが、ガダルカナル島での戦力消耗を危惧した東條内閣は、御前会議でガダルカナル島からの撤退を決定します。撤退命令を受け、ガダルカナル島の日本軍は島から脱出しました。脱出前に足手まといになる傷病兵の多くが自決させられたとも伝えられます。

ガダルカナル島からの撤退は、国内向けの報道で「転進」と称され、ガダルカナル島での悲惨な状況は戦争中の国民に知らされませんでした。

ガダルカナル島敗北後の戦局

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ガダルカナル島での敗北後、日本はアジア・太平洋地域の各地で連合軍の前に敗退を繰り返すようになりました。インドに侵攻することを目的として始められたインパール作戦も失敗に終わり、日本軍の撤退路は白骨街道とよばれます。サイパン島陥落後、アメリカ軍のB-29による恒常的な空襲により、日本本土の大都市は焼け野原と化しました。戦争継続が困難となった日本はポツダム宣言を受け入れ降伏します。

インパール作戦の失敗

ガダルカナル島での敗北からおよそ1年後、ビルマ(現ミャンマー)の日本軍がイギリス領インドに侵攻するためインパール作戦を発動しました。日本が投入した戦力は92,000人。対するイギリスなどの連合軍は150,000人に達しました。

ガダルカナルの戦いとの共通点は、補給を軽視した軍事行動です。インパール作戦の場合は、補給を軽視というより無視し、精神論で前線の兵士を戦わせたという点で、ガダルカナル島の戦いよりも悲惨だったかもしれません。

日本軍は物資の輸送と行軍中の食料を兼ねた家畜を多数つれていきましたが、その多くが川に流されたり、ジャングルで倒れたりしたため、兵士たちの食料とはなりませんでした。

家畜に頼った補給が失敗しても、日本軍は当初の予定を変えずに進撃を継続。物資のない中でイギリス軍などと交戦し、多くの死者を出しました。さらに、食糧不足から多くの餓死者を出します。日本軍の歴史上、最悪の作戦ともいわれますね。

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