ドイツナチスドイツヨーロッパの歴史

第二次世界大戦の行方を決定付けた「スターリングラードの戦い」とは?歴史系ライターが解説

A方面軍とB方面軍

作戦「青」が始まる直前5月、ソ連軍は規模の大きい春季攻勢を掛けますが、事前に察知していたドイツ軍によって惨敗を喫しました。まさにその勝利の勢いをもって作戦「青」はスタートしたのです。

作戦参加兵力は同盟国軍を含んだ130万でした。主攻戦力はリスト元帥率いるA方面軍100万、そして側面で支援を務めるボック元帥指揮のB方面軍が30万という内訳となっていました。

まず手前のドン川周辺のソ連軍を撃破し、その後、さらに向こうにあるヴォルガ川の安全を確保した上でコーカサスへ攻め込む予定になっていたのです。

しかし作戦初期の段階で、ドン川に近いヴォロネジ周辺のソ連軍の抵抗に遭い、作戦スケジュールに遅れが見え始めます。なんとか抵抗を排除するものの、ソ連軍主力は東方のスターリングラード方面へ素早く撤退した後でした。遅延の責任を取らされる形でB方面軍司令官ボック元帥は解任され、ヴァイクス大将が後任となりました。

しかしドイツ側指揮官たちはソ連軍の素早い撤退ぶりを訝し気に感じます。

「おかしい…これまでのソ連軍なら簡単に包囲されるはずが、ヤツらが素早く逃げるのはなぜだ?」

たしかに、これまでのソ連軍なら陣地を死守してそのまま包囲されることが常だったのですが、いま目の前にしているソ連軍は秩序ある撤退をしているように思えました。

それもそのはず、ソ連軍は戦略自体を大きく転換させ、【弾性防御】に切り替えていたのです。敵が迫って来るや反撃を繰り返して素早く撤退し、また追ってくれば反撃するといった具合でした。

要所で反撃を繰り返すことで敵を疲弊させ、確実に補給線を伸び切らせようとするのが狙いだったのです。広大なソ連の国土があったからこそ可能だった戦術でした。

とにかくスターリングラード周辺にいる敵を殲滅したのち、コーカサスへ向かうことがセオリーだったはずですが、ヒトラーはここで大きなミスを犯してしまいます。

「A方面軍は予定通りコーカサスへ向かい、B方面軍はヴォルガ川を確保しつつ敵を撃滅し、スターリングラードを占領すること。」

ただでさえソ連軍より少ない兵力を2方向に分け、「コーカサス地方」と「スターリングラード」を同時に奪取しようと目論んだのです。

「ソ連の最高指導者スターリンの名を冠した都市を攻略すれば、きっと敵の戦意を挫けるだろう。」という楽観的かつ頑迷な考えに基づいたものでした。

本来の作戦目標はコーカサスの油田地帯だったはず。A・B両方面軍の協力があってこそ成功の可能性が出てくるにもかかわらず、ヒトラー個人の思い入れのおかげで、作戦に齟齬をきたせば悲劇以外の何者でもありません。将軍たちは必死になって翻意を求めますが、ヒトラーは首を縦に振ることはありませんでした。

B方面軍、スターリングラードへ進撃を開始

コーカサスへ向かうA方面軍の戦力を増強させるため、B方面軍所属の第4戦車軍が引き抜かれることになりました。スターリングラードを攻めるB方面軍は、最初の段階で不十分な戦力しか保持していなかったといえるかも知れません。

それでも8月23日から始まったスターリングラード攻防戦は、圧倒的なドイツの攻撃から始まったのです。延べ2,000機を超える軍用機の空爆が市街地を覆い、ヴォルガ川から渡河してくるソ連軍の増援部隊を叩きのめしました。

攻撃を担任するのはドイツ第6軍司令官パウルス大将。彼はこれまで参謀本部勤務などのデスクワークが長く、今回初めて現地指揮官として抜擢されたのでした。大きな戦功を挙げて陸軍トップに就任すること。これがパウルスの野望でした。

 

「敵機の空爆はたった2時間で街を破壊しました。煙や熱気、そして大火の輝き…文字通りすべてが焼き尽くされ、レンガですら燃え上がりました。 地獄!まさに地上の地獄だったのです!」

引用元 「スターリングラードの戦いと大祖国戦争の参加者の回想録」より

 

対するソ連側も、正規兵の他に市民や工場労働者まで動員し、徹底抗戦の構えを見せました。市街各所にバリケードが張り巡らされ、兵力で劣るとはいえ地の利を生かした戦いを展開しようとしたのです。

地獄の市街戦

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Bundesarchiv, Bild 146-1974-107-66 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

スターリングラードの守りは、ソ連軍第62軍が中心となって担っていましたが、9月より新任司令官となったチュイコフ中将は不屈の男でした。ドイツ空軍の激しい空爆によって市街地は瓦礫と化しますが、建物や瓦礫の陰から執拗に抵抗することを命じます。

ドイツ軍は多くの戦車を投入しますが、瓦礫だらけの戦場では全く役に立たず、ほんの10メートル進むだけで7~8人のドイツ兵が倒されていきました。ソ連軍は狙撃兵の役割に重きを置き、ドイツ兵を一人一人確実に仕留めていく戦術を徹底したのです。

「パブロフの家」と呼ばれるアパートが現存していますが、ここはまさにスターリングラード防衛のシンボルともいえる存在でした。パブロフ軍曹の部隊はは命令に従ってこの建物を守り続け、生存者が4人になるまで奪われることはなかったそうです。パブロフはこう振り返ります。

 

「私たち一握りの兵士たちは、ナチ(ドイツ軍)の飛行機に爆撃され、敵の戦車から襲撃を受け、容赦なく大砲と迫撃砲を浴びました。しばらくの間、機関銃の銃撃は止まりませんでした。私たちには弾薬が足りないこともあり、食べ物も水もありませんでした。ひっきりなしに砲弾が炸裂するので息をすることもできなかった。

引用元 「パブロフの家の20分の6」より

 

またソ連軍兵士は、すでに占領されている地域へ潜り込んで、後方からドイツ兵を襲いました。そのため苦戦したドイツ軍は虱潰しに徹底的な攻撃を加えることとなり、その戦いの凄惨さは言語を絶するものとなっていきました。まさに血で血を洗う争奪戦が展開していたのです。

それでも10月下旬になると、ようやくドイツ軍は市街地の90%を確保するようになり、ソ連軍の抵抗も弱まっていきました。季節は秋を過ぎ、寒気が漂い始める冬を迎えようとしています。

ドイツ第6軍包囲される

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スターリン市街のほとんどを占領し、もはや勝負あったかに見えた11月。思いもよらなかったソ連軍の大反撃が始まります。これがドイツ第6軍の運命を決定付けることになったのです。

作戦「天王星」発動

スターリングラードで熾烈な攻防戦が展開されている頃、ソ連側は来るべき反抗作戦のために兵力を集中させつつありました。その兆候に危機感を覚えたドイツ陸軍参謀総長ハルダー大将は、ヒトラーにリスクの大きさを忠告しますが、逆に更迭されてしまいます。

11月に入ると悪天候が続き、ドイツの偵察機もソ連軍の動きを把握できにくくなっていました。作戦のためにソ連軍が準備していた兵力は、兵数100万、戦車980両、航空機1,000機という大規模なものでした。作戦名は「天王星(ウラヌス)」「長引く戦闘で疲弊し消耗しているドイツ第6軍を包囲し、戦線に大きな楔を打つこと。」という野心的なものだったのです。

11月19日、ソ連軍が作戦を発動。B方面軍の弱点だと危惧されていたルーマニア軍の担任地域へ雪崩れ込みました。弱体だったルーマニア軍はあっけなく崩壊して敗走。その大きく空いた穴を塞ぐためにドイツの精鋭部隊が派遣されますが、別の方面からもソ連軍の攻撃が開始されます。

ただでさえ戦力を消耗し、燃料不足に陥っていたドイツ軍は、ソ連軍の進撃スピードについていけずに混乱し、有効な反撃ができないまま11月22日に至ると完全包囲されてしまったのです。包囲された部隊は第6軍を中心として約25万人程度でした。

追い詰められる第6軍

第6軍司令官パウルス大将はじめ、ドイツ側の上級指揮官たちは状況を楽観視していました。包囲されたといってもソ連側の戦力は限定的で、包囲環もさほど強くないと。

しかし、その楽観も絶望に変わりつつありました。ソ連側の動員兵力は意外に強力で、包囲を解くことは容易ではないこと、第6軍の弾薬・燃料も枯渇しつつあること。しかしヒトラーは撤退を絶対に許しません。そこで上級司令部のマンシュタイイン元帥は、第6軍救出のための作戦を発動しました。

12月12日に発動された「冬の嵐」作戦は、なけなしの戦車機甲部隊を進出させ、ソ連軍の抵抗を排除しつつ第6軍を解放するというものでしたが、雪に阻まれた挙句、ソ連軍の強力な抵抗に遭ってあえなく頓挫。第6軍もまた燃料不足により、内から包囲網をこじ開けることすらできませんでした。

切羽詰まった状況の中、ドイツ空軍総司令官ゲーリング元帥は、ヒトラーに対してこう言い放ちます。

「しょせん陸軍は無能なのでしょう。ぜひ私の空軍をご活用してください。輸送機からの空輸で第6軍を来春まで持ちこたえさせて御覧に入れましょう」

しかしゲーリングの安請け合いも、まったくの空手形に終わります。第6軍を保持させるためには日量700トンの物資が必要となりますが、連日の悪天候や敵機の攻撃に悩まされ、1日に100トン前後がやっとでした。ゲーリングから無謀な任務を背負わされた航空機総監ミルヒ元帥は、ゲーリングのあまりの無知と怠慢に怒りを隠さなかったそうです。

やがて包囲環が徐々に狭まっていくとともに、着陸可能な飛行場も皆無となり、パラシュートで物資を投下するしか手段はなくなりました。しかし飢えと寒さに苦しむドイツ兵には、重いコンテナを回収するだけの体力がなく、放置されるままになりました。

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明石則実