「天明の打ちこわし」の拡大と収束
江戸の町で打ちこわしの標的となった商人は500軒にもなったと見られています。のべ5000人以上もの庶民が打ちこわしに加わり、中には捕縛・処罰されたり、手配書が出回ることもあったようです。
ただ、打ちこわし自体は非常に統率がとられていました。特定の商家だけを狙い、近隣に被害が及ばないよう配慮。米蔵から運び出した米を地面に撒き散らすという象徴的な行動が中心で、盗みは厳禁。さらに、火事を出さないよう注意していたようです。
単なる暴動ではない、計画された民衆運動という一面を持っていた打ちこわし。だからこそ、天明の打ちこわしは大坂や江戸だけでなく、全国各地の都市へと広がっていったのでしょう。
打ちこわしが最も激しかった天明7年5月の後半、幕府はようやく重い腰を上げ、困窮者に食料やお金の支給を決定。米の価格を下るなどいくつかの政策を実行し事態の収束に乗り出します。
こうした政策の成果が出て「天明の打ちこわし」は徐々に静まっていきました。
打ちこわしの背景には、都市部への人口集中という、現代社会にも通じる問題が潜んでいます。農村の農民たちが田畑を捨てて江戸や大坂に集まる、といった現象が頻発していました。打ちこわしを防止するためには、農村政策など根本的な改革が必要だったのです。
田沼意次の支持は急落。もともと、田沼の金バラマキ政策には幕府内でも賛否があり、反田沼派も少なくありませんでしたので、打ちこわしの原因を作った田沼の失脚は当然といえば当然。代わりに老中となった松平正信による「寛政の改革」が始まります。
ただ、残念ながら、その後もたびたび凶作や飢饉が発生し、一揆や打ちこわしがなくなることはありませんでした。
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「打ちこわし」とは、か弱き庶民たちによる怒りの鉄拳!
江戸時代に頻発していた「打ちこわし」。庶民たちは大義を持って行動しており、単に「食べるものがないから金持ちの家から盗み出そう」「食べ物がなくてイライラするからひと暴れしよう」「金持ち殴ってすっきりしよう」等々、そういう類のものではないと分かって、非常に興味深かったです。本当は、打ちこわしが起きる前に幕府や役人が行動を起こすべきところですが、時がたつと喉元忘れて……これは、現代社会にも通じることなのかもしれません。