ミュンヘン会談の内容
ミュンヘン会談では主にチェコスロバキアの処理とズデーテン地方の問題の解消がはなされることになりました。
しかし、チェンバレンは戦争をおこるのを嫌い、さらにヒトラーが反共産主義者ということもありヒトラーを中欧の防波堤とすべきだという意見が巻き起こりいわゆる宥和外交をしていくことになります。
ヒトラーとの交渉
戦争も辞さなかったヒトラーは会談に応じるかは不明瞭だったのですが、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介に入ることでこの会談を快諾してイギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーがミュンヘンに集まり会談を行うことで解決することが決まりました。
ちなみに、チェコスロバキアの代表はこの会談には参加することはできず、隣室で会議の結果を聞かされるほかありませんでした。
チェンバレンとダラディエはズデーテン地方がドイツのものとなりヒトラーの領土拡張が治るのであれば安いものだとしてこのヒトラーの要求を全て容認することでまとまり、ミュンヘン会談は穏やかな形で終了。イギリスとフランスはこれによって戦争が起きなくて済んだと大喜びとなり、ヒトラーの目標も達成されることになったのです。
協定の結果
ミュンヘン会談の結果、ズデーテン地方はドイツに割譲。さらにチェコスロバキアのドイツの政治犯を釈放することが決められました。
また、元々ハンガリー領としてあった地域もハンガリーへの割譲が認められてしまい、チェコスロバキアの領土は大幅に削減されることになります。
別室にいたチェコスロバキアの代表のヤン・マサリクはこの会談の結果をみて落胆のあまり涙を流したそうです。
ミュンヘン会談のその後
ミュンヘン会談ではヒトラーは「このズデーテン地方の割譲を最後の領土要求とする」と言い、これによってイギリスやフランスはドイツは二度と領土拡張を行わないと踏んでいました。
しかし、ヒトラーはこのミュンヘン会談以降も領土拡張を続けていき、一年後にはズデーテン地方を失って著しく工業力が落ちていたチェコスロバキアをついに併合。チェコを保護領に、スロバキアを傀儡国家としてしまったのです。
さらにヒトラーによる領土要求はこれにとどまらずリトアニアのメーメルも割譲。さらにポーランドのダンツィヒも手に入れようとし、そして時代は第二次世界大戦へと突き進んでいくことになるのでした。
ミュンヘン会談の否定的な点
ミュンヘン会談の結果は、その後のナチスドイツの領土拡大の主要な原因となっていき、最終的には第二次世界大戦が起こったとされています。
のちのイギリス首相チャーチルは直後の議会演説で「すべては終わった。見捨てられ打ちのめされたチェコは沈黙と悲しみと包まれて闇の中に退場する。われらの護りは恥ずべき無関心と無能にあったこと、われらは戦わずして敗北したこと、その敗北が後にまで尾をひくことを知れ。これは終わりではない。やがてわれらに回ってくる大きなつけのはじまりにすぎぬ。」と非難することに。
この当時戦争屋といわれあまりよく思われていなかったチャーチルがもしここでガツンと言っていればもしかしたらこれから先起こってしまうホロコーストも無かったのではないかと考えられます。
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ミュンヘン会談の肯定的な点
一方で、宥和政策をやってようがやってまいが第二次世界大戦が起こった時期が変わっていただけで第二次世界大戦自体は防ぐことができなかったであろうという意見もあります。
フランスのホネ外相が「1938年にドイツに開戦したところで、1940年の敗北が2年早く訪れただけ」と形容したようにこの時点ではドイツの方が強く、いきなり戦争するよりは戦争準備のための時間稼ぎの必要性から譲歩を行ったということもあり、チェンバレンを一概に非難することは難しいとされているのも実情です。
また、この当時イギリスやフランスが仮想敵国としていたのはナチスドイツのさらに向こうにあるソ連。ナチスドイツの勢力拡大よりもソビエト連邦の共産主義の方が脅威と考え、さらに反共とされているドイツに譲歩することによってドイツをソ連の防波堤にしようとしていたのです。
しかし、チェンバレンの意向はことごとく外れ、ズデーテン地方を割譲されたことでドイツ工業生産力は著しく増加。さらにドイツはソ連との間でモロトフ=リッペンドロップ協定を結び不可侵条約を締結することになります。