平安時代日本の歴史

源氏が東国武士の棟梁になったきっかけ「前九年の役」を歴史系ライターが解説

安部親子に大赦が下る

安部親子を討伐するべく陸奥へ下向途中の頼義に、思いがけない知らせが届きます。一条天皇の中宮だった藤原彰子が病に掛かり、病気快癒祈願のために罪人に対して大赦が行われるというのです。

大赦とは死罪などの重罪であっても罪を許されることで、安部親子にも大赦が下ることによって、もはや朝敵ではなくなったのでした。

頼義とて無駄な戦でリスクを背負うよりは、帰順を誓わせるほうが楽ですし、陸奥国の統治もしやすくなります。まさに願ったり叶ったりだったといえるでしょう。

ようやく頼義が陸奥へ着任すると、反抗していたはずの安部頼良の態度が一変します。恭しく饗応し、まるで主君に仕える忠臣のよう。また「頼義」「頼良」とで名乗りが一緒であることを憚って安部頼時と改名。その後は服従を続け、税もしっかりと納めるようになりました。

そして月日が経ち、やがて頼義の任期満了の日が近づいてきたのです。

再び反乱が…「前九年の役」後半戦が始まる

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源頼義の陸奥守としての任期が切れる寸前、再び大乱を勃発させるきっかけになる事件が起こります。それは「前九年の役」第2ラウンドの始まりとなったのでした。

源頼義の陰謀?阿久利川事件

頼義が陸奥守の任期を全うする間近の1056年、突然事件が起こります。頼義の部下が阿久利川の河畔で野営していたところ、何者かの襲撃を受けたというのです。

部下の話を聞いてみると、「頼時の息子貞任が、私の妹と結婚してきたいと言ってきましたが、蝦夷の一族に妹はやれないと断りました。おそらく貞任はそれを恨んで仕返しにやって来たのでしょう。」と言うではありませんか。

頼義はろくな詮議もしないまま、頼時に貞任の出頭を要求します。しかしまったく身に覚えのない頼時は「そのような不確かな言いがかりで息子を渡すわけにはいかない!」と断固拒否。せっかく平和になったにも関わらず戦闘が再開されることになったのです。

しかしこれは頼義の陰謀だったのではないか?と筆者は推測していますね。あえて主観を述べますと、まず安部頼時にはまったく動機がありません。反乱の罪を許された上に、同じ名は恐れ多いと改名まで行い、この事件の直前に頼義を招いて歓待までしていました。もし反逆するつもりだったのなら、自邸に招いた時点で頼義を殺害しておけばもっと簡単だったはずです。

いっぽう頼義の方にこそ陰謀の動機があったといえるでしょう。陸奥守の任期が切れて京都に帰れば、上級貴族たちの顔色をうかがって暮らさねばならない。当時の武士は貴族の下風に立たされる地位でしたから、プライドの高い頼義にとっては我慢ならなかったことでしょう。

馬や金の産地で、肥沃で広大な陸奥に留まることができたなら、それこそ頼義は王様気分で悠々と過ごせるわけです。また朝廷の長年の宿敵だった蝦夷の一族を討てば、英雄として朝廷における地位も上がるわけで、何としても反乱を起こさせる必要があったものと思われますね。

戦いが起きてしまった以上、事態を収拾するためにはやはり戦いしかありません。新任の陸奥守も決まっていたのですが、合戦が起きたことを知って辞退してしまい、事は頼義の思惑通りに進んでいくのです。

安部貞任の奮戦、源義家の苦戦

どうも頼義という人物は確かに戦いは上手だったのかも知れませんが、どことなく小賢しく、それでいてよく物事を考えない性質だったのではないか?と思えてきますね。

安部頼時の婿だった平永衡は頼義軍に属していましたが、「きらびやかな銀の甲冑を着ているのは、頼時に居場所を教えているに違いない。」とロクな証拠もないまま疑いを掛けて斬殺。それを見た頼時の相婿だった藤原経清「自分も同じように殺されるのではないか?」と恐れて安部軍に身を投じてしまいました。

その結果、藤原経清が安部軍の中核戦力となって頼義軍を苦しめることになったわけですが、前後の脈絡も考えないまま行動を起こしてしまう頼義の短絡的な性格が災いしたというところでしょうか。

しかし安部軍の方にも不幸が襲います。奥六郡の北方には津軽の豪族たちがいましたが、彼らが頼義と共謀して安部軍を挟み撃ちにしようとしたのです。

慌てた安部頼時は、なんとか津軽の豪族を説得しようと北へ向かいますが、なんと伏兵に遭ってあえなく討ち死。安部軍に衝撃が走りました。頼時の跡を息子の貞任が継いだわけですが、戦いはまだまだ終わりません。

いっぽう頼義は、陸奥国が飢饉に見舞われていたため朝廷に対して、諸国の兵や兵糧を集めるための太政官符の発給を願い出ますが、朝廷の反応は芳しいものではありませんでした。単なる地方における諍いとしか認識していなかったのです。

1057年、頼義は仕方なしに戦備不足のまま出陣。安部貞任を討とうとします。しかし季節は冬のこと。寒さに慣れない頼義軍は苦戦を強いられ兵糧も底を尽きました。そしてついに黄海の戦いで安部軍に完膚なきまでに敗れ去るのです。この時、頼義は主従7騎ほどに討ち減らされ、ようやくのことで死地を脱したのでした。

頼義軍はなんの援軍も補給もない状況の中で戦いに撃って出ることもできず、膠着したまま5年の月日が経過することになるのです。

ついに切り札を投入!形勢逆転なる

どこからの援助もなく、進退窮まった頼義が目を付けたのが、中立を保っていた出羽蝦夷の清原氏でした。平安時代後期に編纂された「陸奥話記」には、清原氏を利益で釣って味方に付けたことが記述されていますね。

 

「常以甘言、説出羽山北俘囚主、清原真人光頼舎弟武則等、令与力官軍」

頼義は官軍に属する利点を説いて、清原光頼、武則兄弟を味方につけようとした。

 

しかし同じ蝦夷の安部氏を討つことに気が引けたのか、色よい返答はありません。そこで頼義は現実的な利をもって勧誘しようとしたのです。

 

「将軍、常贈以珍奇、光頼武則等、漸以許諾」

頼義は珍奇な贈り物をたくさん贈ることで、ようやく清原兄弟を味方にすることができた。

 

1062年、頼義の任期切れとともに新しい陸奥守となった高階常重がやって来ることになりました。しかし陸奥の豪族たちは常重には従わず、仕方なく常重は帰京。頼義も新任者に職を譲り渡すことなく、陸奥を牛耳り続けようとした思惑が見えてきますね。

いずれにしても頼義は、出羽の清原光頼、武則兄弟の盟約を取り付け、再び安部氏に対して攻勢を仕掛けることになりました。

頼義・清原連合軍1万は安部氏の勢力圏内に進攻し、ついに形勢が逆転することになったのです。安部貞任は奮戦するものの、鳥海柵を落とされ、最後は厨川の戦いで討ち死。頼義を裏切った藤原経清もまた斬首され、ここに安部氏は滅びたのです。

前九年の役のその後

戦いの結果、安部氏が滅亡して頼義の念願は達せられたわけですが、豊かな陸奥国に居座ることは許されませんでした。なぜなら、陸奥守を解任させられたにも関わらず居座り続け、新任の陸奥守を追い返し、勝手に戦闘を始めたわけです。朝廷に対する反逆といってもいい所業でした。しかし反乱を治めた功績として伊予守に任じられることになりました。

頼義が陸奥で長年活動した甲斐もあり、元々は畿内の武士だった源氏が東国において、盤石な基盤を築くきっかけとなりました。頼義の子義家の代になって後三年の役が勃発しますが、そこでも東国武士たちの棟梁としての存在感を示し、のちに源頼朝が飛躍する土台を作ったのです。

頼義の息子たち、長男義家の子孫は鎌倉幕府を興した源頼朝、そして三男の義光の子孫は甲斐源氏となって、のちに武田信玄らを輩出することになりました。

いっぽう敗れた安部貞任の部将藤原経清は、安部頼時の娘を妻に持っていました。妻との間に息子がいましたが、妻は清原武則の長男武貞に再嫁し、連れ子である息子が後に清原家の家督を継ぐことになりました。この人物こそが奥州藤原家の初代当主となる藤原清衡でした。

後年、源義経をかくまった廉で鎌倉幕府軍の討伐を受けることになる奥州藤原氏ですが、やはり蝦夷の血は源氏と戦う宿命にあったのでしょうか。

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明石則実