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モンゴル帝国と元の建国者「フビライ(クビライ)」を元予備校講師がわかりやすく解説

大ハーン即位後に起きたハイドゥの乱

フビライへの反発はアリクブカの反乱だけで終わりませんでした。アリクブカが投稿してから2年後の1266年、オゴタイ・ハーンの孫にあたるハイドゥが中央アジアで反乱を起こします。

モンゴル帝国成立当初は、オゴタイ家とチャガタイ家が中心となって帝国が運営されていました。しかし、モンケが即してから帝国の中枢はトゥルイ家が占め、オゴタイ家やチャガタイ家は排除されます。そのため、ハイドゥの立場は不遇でした。

ハイドゥは、キプチャク=ハン国やチャガタイ=ハン国と同盟し、フビライに対抗します。フビライは南宋遠征を行いながら、ハイドゥと戦い続けました。戦いはフビライの死後も続き、1301年にはハイドゥも死去します。最終的に反乱が収まったのは1305でした。

フビライ・ハーン時代の活動

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1264年、アリクブカとの戦いに勝利したフビライは首都を中都(現在の北京)に移します。1271年にフビライは国号を元と定めました。その後、中都を大都と改め帝国の中心として整備します。フビライの時代も対外遠征は続きましたが、騎馬の活動が難しい日本や東南アジアでの遠征ではたびたび苦杯をなめることになりました。フビライの死後、現は急速に衰退し1368年に元は滅亡。モンゴル人の皇族たちは北へと逃れます。

大都を建設し、国号を元と定める

フビライは、モンケ・ハーンの時代から中国方面の征服活動を担っていました。彼の関心も、西方より東方にあったかもしれません。1264年、アリクブカの乱が終息すると、フビライは本拠地を中都に移します。

フビライが直接支配した領土はモンゴル高原と中国の北半分といったところですね。1271年、フビライは中国風の国号である「」を使用。都の名前も大都と改称します。これは、フビライが本格的に中国統一を目指す意思の表れだったとみてよいでしょう。

長江の南には漢民族の王朝である南宋が生き残っていました。フビライは南宋の息の根を止めるべく遠征を実行。1276年に南宋の首都である臨安を占領しました。1279年、元軍は戦いで厓山の戦いで南宋の残党をせん滅。中国を統一します。

二度にわたって日本に侵攻した元寇(文永の役と弘安の役)

1268年、元に攻撃され服属していた高麗から、フビライの国書を持った使者が日本を訪れます。鎌倉幕府はフビライの使者を無視しました。高麗で起きた三別抄の乱を鎮圧したフビライは日本遠征を決断します。

1274年、フビライは元・高麗軍などを主力とする部隊を九州北部に侵攻させました。元・高麗連合軍は博多湾に上陸し、集団戦に不慣れな鎌倉武士に大きな損害を与えます。しかし、幕府軍の必死の抵抗などもあり戦闘を一日で止め、撤退しました(文永の役)。

1275年、フビライは使者として杜世忠を日本に派遣し降伏を迫ります。しかし、鎌倉幕府はこれに応じず、使者の杜世忠を斬り捨ててしまいました。元と対決姿勢を強めた鎌倉幕府は博多湾に石築地をつくり元軍の襲来に備えます。

1281年、フビライは合計15万近くに上る大軍を日本に派遣しました。文永の役と異なり、防御態勢を敷いていた鎌倉幕府軍の抵抗は根強く、元軍は博多に上陸することができません。戦いは1か月近く膠着状態が続きます。

1281年7月、博多湾に停泊中の元軍を暴風雨が襲いました。これにより、元軍は壊滅的被害を被って撤退します(弘安の役)。

東南アジア各国への出兵

フビライは日本遠征を実行する傍ら、東南アジア諸国への出兵も行いました。1287年、元軍はビルマ(現ミャンマー)にあったパガン朝に侵攻します。元の攻撃によりパガン朝は潰滅。ビルマは分裂状態となりました。

フビライはベトナム方面への出兵も行います。ベトナムには北部の陳朝大越国、中部から南部にかけてのチャンパー王国がありました。フビライの軍は両国とも攻撃しますが、攻略に失敗してしまいます。

1292年、フビライは元軍にジャワ遠征を命じました。当時、ジャワにあったのはシンガサリ朝です。派遣された元軍はシンガサリ朝での政争に巻き込まれ退却を余儀なくされました。この混乱を利用してマジャパヒト王国がジャワで勢力を拡大します。

フビライ死後の元の衰退

フビライの死後、元では衰退の兆候が見られます。元ではモンゴル人や色目人が社会の譲位を占めるモンゴル人第一主義がとられていました。そのため、出世しにくい南人(旧南宋領の人々)は元に対し強い不満を持ちます。

また、連年の出兵により軍事費が増大したことで財政赤字が拡大しました。財政赤字を解決するため交鈔とよばれる紙幣を発行しますが、交鈔の乱発により激しいインフレーションを招いてしまいます。

これに追い打ちをかけたのが黄河の反乱でした。農耕民族ではないモンゴル人中心の元の宮廷は治水対策に不熱心で、これも人々の怒りを買う原因となります。

1351年、白蓮教徒による紅巾の乱が発生。元は大打撃を受けました。紅巾の乱で頭角を現したのがのちに明を建国する朱元璋。朱元璋は元軍を中国本土から追い払い、漢民族の支配を回復させます。

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