銭を造れ!新貨幣と貨幣制度確立で経済発展
政治や経済の世界でお金がたくさん動くと、なんとなくきな臭いイメージが付きまといますが、田沼意次は経済活性のため、かなり緻密で具体的な政策を打ち出していました。
「米」から「貨幣」へ経済の仕組みを変えるには、貨幣そのものがたくさんなければ話になりません。
そこで大々的に着手したのが新貨の鋳造。五匁銀(ごもんめぎん)や寛永通宝(かんえいつうほう)など、時代劇でもおなじみの貨幣の製造を命じます。
特筆すべきは南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)という貨幣の発行です。
この当時はまだ、日本全国で共通の貨幣というものがありませんでした。西日本では、銀貨の重さで価値を判断(貨幣の表面に額面に額面を書かない)やり方が主流だったのだそうです。実際、西日本と東日本で貨幣の価値が異なり、やり取りのたびに両替が必要になるなど不便が生じていました。
そこで田沼意次は、最初から額面が決まっている銀貨を作ることを考案。質の良い銀を使い、南鐐二朱銀を作り出しました。
いわゆる「名目貨幣」。貨幣の形は長方形で、表面に「以南鐐八片換小判一両(八枚で小判一両に換える)」と分かりやすく書かれています。
先に出した五匁銀は、銀の質があまりよくなかったせいもあって今一つ流通しませんでしたが、南鐐二朱銀は結果的に通貨制度の確立・安定を促す存在に。その後もこうした名目貨幣はたくさん鋳造され、貨幣経済の発展へとつながっていきます。
ただ、残念ながら、田沼意次の時代には、まだまだ藩それぞれのお金の単位(藩札)などがあり、日本全国統一の貨幣制度の確立とまではいきませんでした。本格的な全国統一は明治時代に入ってから。田沼意次の政策は、かなり時代を先取りしたものだったようです。
儲かるなら海外にも!蝦夷地を開拓してロシア貿易
田沼意次の政策の中には、新しい土地の開拓事業も数多く含まれていました。
特に、利根川水系に位置する印旛沼や手賀沼の干拓事業が有名です。商人たちかにお金を出させて江戸郊外に土地を開拓。田んぼを増やしていこうという大事業。名案ではありましたが、これは天が味方しませんでした。完成して間もなく、天明六年(1786年)に利根川水系で大洪水(天明の洪水)が発生し失敗に終わります。
新しい土地の開拓という点では、蝦夷地の開拓にも着手していました。これに関連して、田沼意次は「俵物(たわらもの)」と呼ばれるものの輸出に力を入れます。
俵物とは、干しアワビ、フカヒレ、干しナマコなどを詰めた俵。中国では珍重される高級食材ばかりです。田沼意次はこれらの食材を蝦夷地で採り、長崎から中国へ輸出させて儲けようとしました。
蝦夷地のことを詳しく知るため、幕府内で探索チームを結成して現地へ派遣。蝦夷地の開拓だけでなく、ロシアとの交易も視野に入れていたと伝わっています。
しかしこの探索には莫大な費用がかかり、その割に成果は低め。結局、反田沼派に恰好の反発ネタを与えただけになってしまったようです。
倹約がすべてじゃない!ほどほどなら成功したかも・田沼意次の金策政治
世が世なら、大きな成功を収めたかもしれない田沼意次。赤字解消といえば増税と倹約がすべて……といってもよさそうな時代に、斬新な政策を次々と打ち出し、幕政の立て直しに奔走する姿は、時代劇などでのラスボスっぽいイメージとは少し違っているように思えました。田沼意次の時代は自然災害や飢饉も多く、庶民はただでさえ苦しい生活を強いられていたと思われます。政治家が脱税や不正を働くと、予想以上に世間の怒りが膨れ上がるのは今も昔も同じこと。失敗を恐れていては改革は進まない、ということなのかもしれません。