安い!簡単!美味しい!食の大発明【カップヌードル】の歴史を辿ってみよう
進化するインスタントラーメン
インスタントラーメンの黎明期ともいえるこの頃、業界全体で発展を遂げようとするうねりは技術革新にも大きな転機をもたらしました。
ちょうどこの頃から日清食品に続けとばかりに、現在でも名の知られるメーカーが独自の技術を駆使しして新商品を開発していますね。
昭和37年に発売された明星食品の「明星ラーメン」、東洋水産の「マルちゃんのハイラーメン」はスープ別添えとなり、インスタントでありながら本格的なラーメンとして人気を博しました。スープが別添えになることで味に深みが出ますし、鍋で煮ることで様々な具材を加えることも可能になりました。
さらに翌年、日清食品が夏場に売れないラーメンの代わりに「日清焼きそば」を販売。またエースコックが「エースコックのワンタンメン」を出すなど、現在でも売れ続けているロングセラー商品を登場させました。
昭和39年に「長崎タンメン」を発売したサンヨー食品が加わるに及んで、現在の大手メーカーの陣容が出来上がったといえるでしょう。
昭和36年に5億5千万食だった総出荷数は、その5年後にはほぼ5倍の25億食に達し、もはやインスタントラーメンは不動の国民食としての地位を確立したのでした。
進化はそれだけにとどまりません。「ノンフライ製法」という画期的な乾麺製造法が業界に革命をもたらしました。従来のように油熱で水分を飛ばして乾燥させるのではなく、熱風によって乾燥させるものです。
ノンフライ製法によって油脂の劣化をなくし、スープの味わいも格段に良くなりましたし、麺の食感がより生麺に近くなったことで、舌が肥えつつある日本人を満足させる品質に繋がったのですね。
どこでも簡単に食べられる【カップヌードル】の誕生
インスタントラーメンがすっかり定着し、売り上げの伸びが鈍化してくると、それに代わる新しい商品の開発が急務になりました。百福が目指していたもの。それは「インスタントラーメンを世界食にする」ということでした。
百福の発想から始まった新しいカップ麺の開発
昭和41年、チキンラーメンの拡販のために欧米を訪れた百福は、現地の担当者がおもしろい食べ方をしていることに驚きました。外国のことですから当然どんぶり鉢はありません。そこで彼らはチキンラーメンを手で2つに割り、カップに入れてお湯を注いだのです。さらにフォークを使って麺を器用に食べているではありませんか。
「そうか、外国ではどんぶり鉢も箸もない。ならば外国のスタイルでも食べられるインスタントラーメンを開発すればいいじゃないか。」
そう考えた百福は、カップに最初から麺が入っていて、フォークでも食べられる新商品の開発に着手したのです。さっそくカップ麺の開発に携わるプロジェクトチームを結成し、百福の新たな挑戦が始まりました。
試行錯誤と苦労の連続
まず着手したのが容器の素材をどうするかです。陶器、紙、金属など様々な素材がテストされましたがどうもうまくいきません。そこで注目したのが発泡スチロールでした。日本では一般的に用いられていた素材のため、コストは申し分ありませんし、何より遮熱性が高いことが利点でした。
しかし容器の厚さが問題でした。カップ麺で使うためには薄くする必要がありますし、カップと底を別々に作るわけにもいきません。そこで試行錯誤した挙句、アメリカ企業の技術を導入し、なんとか自社製造で一体成型容器の完成にこぎつけます。しかし今度は特有の刺激臭が強すぎて使い物になりません。
ところがアメリカの化学メーカーから取り寄せたサンプル品には、そのような刺激臭が一切ありませんでした。よくよく聞いてみると、アメリカから船便でやってきた発泡スチロールは、赤道直下の高熱に晒されるために刺激臭が抜けるのだと判明したのです。
そこで製造した容器は、いったん蒸気窯に入れ、高熱を加えて刺激臭を飛ばすという手法が用いられました。また蓋の部分は紙とアルミを蒸着させた素材のものを使い、密閉性を高めたのです。
しかし高い壁になったのは容器だけではありません。カップの中に入れる麺にも大きな問題がありました。カップに湯を注いでも、どうしても戻しムラができて均等に柔らかくならないのです。上の部分が硬くて、下の部分が柔らかいラーメンなど商品にはなりません。また輸送中に麺が破損することも考えられました。
そこで考え出したのが、カップの底より大きめの麺を入れ、カップの中間に固定するという方法でした。そうすることで麺が動かないため破損しませんし、お湯を注いでも熱が均等に行き渡るため、戻しムラがなくなるのです。
それでも実際にカップに麺を入れようとすると、麺が傾いて収まらなかったり、ひっくり返ったりしてうまくいきません。しかし、またしても百福のひらめきがピンチを救うことになりました。
百福が寝ていたある晩、突然天井がひっくり返るような錯覚に陥った時、はたとひらめいたのです。
「そうか!カップに麺を入れようとするのではなく、最初に麺を置いておき、そこにカップを被せればいいんだ!」
百福の逆転の発想により、大量生産が可能になったカップ麺は、いよいよデビューの時を迎えるのです。
カップヌードルのデビュー!しかし…
Yumi Kimura from Yokohama, JAPAN – CUP NOODLE s, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
これまでのラーメンの概念を覆すポイントは具材にも表れています。エビ、卵、いわゆる謎肉(ダイスミンチ)など、明らかに欧米を意識したコンセプトを感じますね。
百福が期待を込めて作りだしたカップ麺は「カップヌードル」とネーミングされ、昭和46年9月18日にデビューしました。しかしそのスタートは非常に厳しいものだったらしく、袋麺が25円の時代に100円もするという高価なもので、「立ったまま食べるのは行儀が悪い!」と揶揄されたこともあり、売れ行きはなかなか伸びませんでした。
「それならば」と百福は店頭販売ルートと並行して新しい販売ルートに着手します。自動販売機戦略もその一つで、お湯の出る自動販売機は非常に珍しく、買ったその場でカップヌードルが食べられるということで注目を集めました。全国に2万台も設置されたそうですね。
さらに若者向けに販促するべく、銀座の歩行者天国で試食販売を実施し、予想をはるかに超える反響を得た結果、多い時で2万食が完売するほど人気を集めました。
さらにカップヌードルの人気を決定付けた出来事が起こりました。昭和47年2月に起こった「あさま山荘事件」がそれで、山荘を包囲する機動隊員たちがカップヌードルを食べている姿がテレビに映し出されたのです。すると視聴者から問い合わせが殺到しました。
「機動隊員が食べている、湯気が出ておいそうなものはいったい何!?」
そこからカップヌードルの人気に火が付くことに。売り上げは右肩上がりにアップし、あっという間にかつての主役だったチキンラーメンと双璧を為すようになりました。まさに即席めん業界の救世主ともいえる存在だったといえるでしょう。
そして昭和48年には海外にも進出。日本の味にこだわるのではなく、それぞれの国や地域によって馴染むようスープの味に変化をもたせているのです。
カップヌードルが果たした役割はそれだけではありません。その後に続くインスタントカップ焼きそばや、現在の生麺ブームの先駆けともいえますし、もしカップヌードルがなければ、それらの商品も陽の目を見なかったかも知れませんね。それどころか日本の食文化に革新的変化をもたらしたのは、カップヌードルだったともいえるでしょう。
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たかが麺、されど麺
チキンラーメンが誕生して60年以上、カップヌードルが生まれて50年ほどになりますが、その人気はいまだに衰え知らずです。かつて安藤百福が生み出した味が、現在の私たちにも受け入れられているなんてホントにすごいこと。こうして日本生まれの世界食となったカップヌードルですが、今日もたくさんの人々のお腹を満たし続けているのですね。